北野映画 / キッズ・リターン

 

『キッズ・リターン』(Kids Return)は、1996年に公開された北野武の6作目となる監督作品です。

1994年のバイク事故で死に直面した北野武がブランクを経て撮影した復帰作。

事故が作品の世界観に大きな影響を与えていますね。

あらすじ

落ちこぼれの高校生マサルとシンジは、高校が受験ムードになっても悪戯やカツアゲなどをして勝手気ままに過ごしていた。

ある日、カツアゲの仕返しに連れて来られたボクサーに一発で悶絶したマサルは、自分もボクシングを始め舎弟のシンジを誘うが、皮肉にもボクサーとしての才能があったのはシンジであった。

ボクシングの才能がないと悟ったマサルはボクシングをやめ、以前にラーメン屋で出会ったヤクザの組長のもとで極道の世界に入り、二人は別々の道を歩むことになる。

高校を卒業しプロボクサーとなったシンジは快進撃を続け、マサルは極道の世界で成り上がっていった。

しかし、ジムの先輩ボクサー・ハヤシからボクシング界の悪しき慣習を吹き込まれたシンジは、安易な道を選択するようになり、大事な試合で惨敗。

一方、敵対する組から組長を狙撃され、親分に反抗して粋がるマサルもヤクザの制裁を受ける。

若さが裏目に出て苦い挫折をした二人は、通っていた高校の校庭でかつてのように自転車の二人乗りをしていた。

 

シンジは冗談混じりに本気の質問をマサルに問いかけた。

「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」

 

あのフライデー襲撃事件前日に発売された北野武39歳の時の詩集があります。

ビートたけしさんの『KID RETURN』から「我々はビー玉である」

少年は作られたばかりのガラス玉

透明で無垢、光輝で鋭利

しかし、一日一日に、大人になるにつれ

小さな傷を負って行く

数えきれないほど多くの傷を

やがてガスビーのように傷つき、淡い光しか発せなくなる

大人になることは、濁りと丸み、汚れと狡さ

決してそんなことがいいとはいわないけれど

何十年も傷一つできなかったビー玉に大きな傷を入れて割ってしまうより

小さな傷を無数に負って淡い光を発することのほうがいいのではないか

 

少しも傷のない生まれたばかりのビー玉であり続けることが

素晴らしいことに間違いないけれど

澄み切った少年であり続けるのは

天才的才能の持ち主か世捨て人にしかできないことだ

 

一日一日、いろいろなものにぶち当って生きていく我々に

小さな傷は必ずできる

かすり傷一つ負わないやつは

よほど偏屈者か図々しいやつか

ダイヤモンドのように優れたやつ

所詮、我々はビー玉である

ありふれたビー玉のくせして

傷つかないようにしたり、人生にもまれないようにしたり

純粋なままで生きたいなどと抜かすやつは

とんでもない詐欺師か、とんでもなくイケ図々しいやつだ

ダイヤモンドでないくせに

自分が無傷であることを願うのは

それ自体悪いことではないけれど

しかし、自分を無傷の状態に保つために

いかに多くの人を傷つけていることか

それをわきまえない振る舞いだ

 

柄にもなく無垢なガラス玉でありたいと願うやつが

一度でも傷を負う立場に立つと

とり返しのできない深手を負ってしまう

一度も傷を負わないやつは、一度も他人と交わったことないやつ

「私は汚いことが大嫌いだ」とか

「不純なことは絶対許さない」とかいってるやつに限って

意外にロクなもんではないんじゃないか

ただ、所詮、ビー玉の我々だけれども

少年時代に見た世界の ガスに曇っていない輝きを

いつまでも忘れたくはない

汚れた大人の世界を濁った光の中で見ているだけのていたらくだけれども

かつてはオレも、外からの光をあるがままに感受し

周りのものを輪郭そのままに見つめていた時代があったことを忘れまい

光を純粋に受けとめて輝いていた時代があり

それが不純になってきた道程を忘れなければそれでいい

忘れるはずがない

傷ひとつないガラスで見た世界を

我々はビー玉なのだから

エンディングに流れる久石譲さんの曲がまたいいですね・・・

 

まだ始まってもいません。

私もこれからです。

62歳ですけど・・・なにか・・・

 

 



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