羽生善治さんが達成した“永世七冠”はどれだけすごいのか?

 

「羽生名人」という呼び名は誤り?

羽生善治棋聖が第三十期竜王戦七番勝負を制し、将棋界最高峰のタイトルのひとつ“竜王”を奪取。

将棋界の同一タイトルを一定回数獲得した棋士に贈られる“永世称号”のひとつ“永世竜王“の資格を得ました。

現在将棋界のタイトル戦は、今年からタイトル戦に昇格した「叡王(えいおう)」を含め8つありますが、永世称号が存在するのは7つ。その7つ全ての永世称号の資格を得たことで、”永世七冠達成“というニュースになっています。

さて、ここから“羽生永世七冠”がどれだけすごいのかについて述べていくわけですが、困るのが呼び名です。

羽生永世七冠、羽生新竜王、羽生十九世永世名人…いずれも正しいのですが、漢字がやたらと続いて重いので、「羽生さん」とします。

フィギュアスケートの羽生結弦選手は「羽生くん」と表記されるのに対し、羽生さんは昔から「羽生さん」ですね。

ここでひとつ「羽生さんあるある」。

おそらく、永世七冠の話題を話す中で、誰かひとりは必ず「羽生名人」と言うと思われます。現在、羽生さんは「名人位」を保持していないので、「ああ、羽生竜王ね」と相槌を打ちましょう。

おそらく、将棋のタイトルのひとつとしての“名人”というよりは、“その道を究めた人“というイメージで「名人」を使っていたり、メディアで多く取り上げられていた時の呼び名が「羽生名人」だったことから、どんな時でも「羽生名人」と言ってしまうのだと思われます。

また、アラフォー世代の男性は、「高橋名人」「毛利名人」「橋本名人」に代表される「ファミコンの名人」が、子どもの頃、同時期に存在したことから、「名人は同時に複数いるもの」という認識があるのかもしれません。

ちなみに、今回羽生さんが奪取した“竜王”は、7つのタイトルの中でも“名人”と並ぶ最高峰のタイトル。「竜王戦」の前身の「十段戦」「九段戦」とあわせると、名人戦に次ぐ歴史を持つ棋戦です。

また、各メディアがとりあげているとおり、将棋界で最も多く賞金の出る棋戦で、竜王獲得で4,320万円の賞金が出ます。

なんと、負けても1,620万円! 2016年度の「年間獲得賞金・対局料金ベスト10」で「10位」の深浦康市九段の年間獲得額が「1,849万円」。

竜王戦の挑戦者になった時点で、140人強のプロ棋士の中で、トップテンに近い金額を稼ぐことができます。(挑戦者になるまでのトーナメントでも賞金が出るので、確実にトップ10にランクインします)

羽生“名人”という呼称問題は「将棋を打つ」とならぶ「将棋が有名になればなるほど、正しい方を広めたい問題」なのですが(将棋は「指す」が正しいのです)、長年の将棋ファンは永世七冠誕生に免じて、「羽生名人」も「羽生竜王」と聴いたことにするのが最善手かもしれません。

 

次に永世七冠を達成しそうな人は見当たらない

さて、今回達成した“永世七冠”と、1996年に達成した“七冠王”、難易度はどちらが高いのでしょうか?21年前の“七冠王”はいわば“瞬間の輝き”。その時の実力と勢いがうまくかみ合ったことで7つのタイトルを同時に制覇できた、という性質のものです。

そして今回の“永世七冠”は“瞬間”ではなく“積み重ね”による偉業。

常に同一タイトルを連続で持ち続ける、もしくは獲得を続けない限りなしえないことです。

そもそも、140人ほどがひしめくプロ棋士の中で、タイトル戦の挑戦者になること自体が棋士人生の中で一度、二度あるかという世界において、“タイトルに挑戦し続ける、さらに獲得・防衛し続ける”というのは尋常ではないこと。

“1989年、羽生さんがタイトルをはじめて獲得した竜王から数えて、今まで200強のタイトル戦が行われ、そのうち99回を制したのが羽生さん“といったように、羽生さんの強さ数字で表した表現を、ツイッターなどで見た方も多いと思います。

”次に七冠王になりそうなのは誰ですか?“と聞かれたら、希望も込みで答えることができますが、”次に永世七冠になりそうなのは誰ですか?“と聞かれたらはっきり答えられます。”いません“と。

永世七冠になれそうな積み重ねをしている人が他にいないからです。強いてあげるとすれば、永世七冠(2回目)を羽生さんがするのでは、という声もあります。末恐ろしい話です。

30歳以上の人であればおそらく「羽生七冠」という文字を目にした、耳にしたことがあると思います。1996年の2月、七大タイトルすべてを獲得する“七冠王”を達成し、“羽生フィーバー”が起こりました。今年の藤井聡太四段による“藤井フィーバー”に匹敵する盛り上がりで、「やっててよかった公文式」「♪明治ブルガリアヨーグルト♪」など、羽生さんがCMに起用されるほど。そして、多くの子どもたちが将棋を習い始めるきっかけになりました。

当時の子どもたちの中からプロ棋士になったひとりに、今年、羽生さんから“王座”のタイトルを奪取した中村太地王座(29才)がいます。

また、去年、羽生さんから“名人”位を奪取し現在2連覇中の佐藤天彦名人や、3年前、竜王位を獲得した糸谷哲郎八段も29才。小学生の時に“羽生七冠”を目撃し、羽生さんの書いた将棋の専門書を読んで強くなった世代が、現在の将棋界で大きな勢力を築き、“羽生さんの壁”を乗り越えようとしています。

 

若手の土俵で戦うのが羽生スタイル

羽生さんの壁…と書きましたが、羽生さんには“ラスボス“感がありません。

本来であれば、若手の挑戦者こそRPGの”勇者・主人公“で、タイトルを持つベテランが”立ちはだかる魔王・ラスボス“、という構図になるはず。しかし、羽生さんは47才を迎えた今も“若手の壁”として立ちはだかるのではなく、「“若手”という壁を超えてやろう、俺が。」という姿勢でタイトル戦に臨んでいます。それはどういうことか。

羽生さんが「俺の得意戦法攻略してみな!倒してみな!」と待ち構え、挑戦者がどうにか攻略する、のではなく、挑戦者が持ってきた得意な戦法を受けて立つ…受けて立つというよりは“挑んで“いるということです。

得意戦法や新しい構想をもってトーナメントやリーグ戦を勝ち上がってきた挑戦者。その挑戦者の土俵で戦うのが羽生スタイル。というのも羽生さんは”これは大得意で必殺技“という戦法は持たず、まんべんなくどの戦法も得意で、同時に”これだけはやめてくれ“という不得意な戦法もありません。

やれやれ。そんな状態なので、普通は”挑戦者が不得意・苦手とする戦法“に持ち込みたくなるところですが、そうしないのが羽生さん。

羽生さんいわく

「相手の得意戦法を受け止めないことで、その時は勝てるかもしれないけれど、そうすることでそのあとずっと勝てないかもしれない」

「毎回、小さなリスクをとっていくことが成長につながる」

「小さいリスクを毎回毎回とって、経験値を増やしていくことで、1年後振り返った時、大きく成長している」

とのこと。

今期、竜王戦がはじまる前の羽生さんは、3人の20代棋士の挑戦を受けました。6月から7月にかけて行われた棋聖戦においては、「羽生さんの漫画を読んで将棋に興味を持った」という斎藤慎太郎七段、24才と対戦。電王戦で将棋ソフトに勝利したこともある実力者でしたが、この棋聖戦では羽生さんが防衛。

そして、7月から8月にかけて行われた王位戦において、前出の菅井竜也七段(挑戦当時)と戦いました。菅井新王位も電王戦に出場経験あり、22歳の時に勝率1位、最多勝利賞、また新しい手や戦法を生み出した功績から“升田幸三賞”を受賞。このときは、菅井七段が羽生さんを破って“初の平成生まれのタイトルホルダー”になりました。

さらに、9月から10月にかけて行われた王座戦において、中村太地七段(挑戦当時)と対戦。中村新王座は、2011年度に年間勝率.8511(40勝7敗)という記録を打ち立てています。これは、将棋界の歴史の中でも2位の記録。羽生さんが七冠王に向けて勝ち星を重ねた1995年の勝率(46勝9敗 .8364)を上回り、さらに藤井聡太四段の今期の勝率も上回ります(執筆時41勝8敗 .8367)。

どうでしょう?羽生さんに憧れ、羽生さんの本を読んで勉強し、プロになってからは格段に進歩した将棋ソフトも駆使して研究している若手棋士が“挑戦者”です。

羽生さんもかつて若手の時代に“パソコンを使って研究している”“個性のない将棋”などと言われたものですが、1980年代~90年代序盤のパソコンでの研究とは“棋譜の整理に役立つ“”研究したい局面をすぐに手元に呼び出せる“といった程度のもので、現代とはまったく異なるもの。

むしろ、泥水をすするような地道な研究をしていたのが羽生さん、そして羽生さんと同学年の”羽生世代“の棋士。そんな羽生さんの “人生経験は盤上に反映されない”“芸の肥やしというのは、遊びたい人の言い訳”という言葉を真摯に受け止めて研究に没頭してきたのが、現代の若手棋士です。

 

「タイトルを奪われた=弱くなった」に直結しないのが羽生さんの強み

そんな20代の棋士3人と戦い、羽生さんは1つのタイトルを防衛し、2つのタイトルを失いました。

20代の棋士から立て続けにタイトルを奪われたことで“いよいよ世代交代か”“羽生さん衰えた”という、この20年で何度聞いたかわからないフレーズが、やはり飛び交いました。

しかし、忘れてならないのは、このハードな戦いをしているさなか、竜王戦の挑戦者になったこと。本当に衰えた棋士ならば、勢いのある若手棋士が最終トーナメントにあがってくる竜王戦で挑戦者にはなれません。

筆者は“真正面から菅井七段、中村七段とぶつかり、新しい構想につきあった結果タイトルを奪われた羽生さん“と、”竜王戦を勝ち上がっていく羽生さん“を見て密かに「今年は竜王位、獲れるかもしれない」と思いました。

羽生さんはこれまで“名人位を失った年“は他の棋戦でタイトル防衛・奪取に成功したり、名人位以外でタイトル失冠・奪取ならずに終わった時は名人戦を防衛したり…というように、大舞台・大勝負において”タイトルを失ったかわりに得たモノ“で、その後タイトルを獲得する、ということが多くみられました。

常にリスクをとって、仮にタイトルを失っても、そこでの経験が次へのステップとなる。この羽生スタイルが、永世七冠を達成した秘訣といえます。

「大舞台での勝負を落としてでも自らの成長を選ぶ」というスタイル。この独自の成長曲線はプロゲーマーのウメハラさんも同じような事を言っていました。羽生さんは将棋界のウメハラ、ウメハラさんはプロゲーマー界の羽生さん。ベテランになった今も第一線で居続けるふたりの言葉、立ち振る舞いには説得力があります。

閑話休題。勢いのある若手の棋士と本気でぶつかった直後の“竜王戦挑戦者・羽生善治“は、近年稀にみる”最強の状態“だったと言えます。

プロ棋士の将棋の勉強方法のひとつに「研究会」というものがあります。これはプロ棋士同士が実際に向き合って、実際の対局スタイルで有効な手を検討していくというやり方です。

「タイトル戦」という、棋士人生を左右するような場所は、実は「どんなシチュエーション、どんな相手とするよりも、これ以上なく本気で考える”研究会“」。

タイトルは失うかもしれませんが、”そこ(タイトル戦の対局)で考えたこと“は、様々な将棋の勉強方法よりも有効ではないでしょうか。今回はタイトルを失いつつも”菅井流の現代将棋感覚”と“中村太地七段のスタミナ、粘り強さ”を得たように見えました。

「タイトルを奪われた=弱くなった」に直結しないのが羽生さんの強み。

むしろ、タイトルを失った時は「最強の挑戦者によって、羽生さんがまた強くなったね」と思ってみていると、結果がついてくる。羽生さんは、タイトル戦に出続ける限り、本当の意味で「衰える」ということはない。これが四半世紀、羽生さんを見続けてきた筆者の実感です。

 

「じゃあどうすれば羽生さんの時代は終わるの?いつ弱くなるの?無敵過ぎない?」

と思った方もおられるでしょう。

羽生さんがこの考え方のもと進んでいくと、ペースはこれまでのようにいかなくても、タイトル獲得を重ねていくと思われます。もはや、「羽生さんの人間としての限界=肉体的・精神的な限界」を迎えるのを待つほかない…羽生さんの精神力、将棋へのモチベーションに負けない気持ちを持ち続けること、これしか対策はないと思われます。

 

しかし、羽生さんが尊敬のまなざしを向ける先は、“77歳”まで勝ち星を重ね続けた加藤一二三九段。

羽生さんは現在47歳。あと30年、このスタイルでやる気です。

 

46歳から47歳という年齢は、歴代の永世名人の歴史を見ても“世代交代”や“時代の終わり”を感じさせる出来事がありました。

木村義男十四世名人は“のちに名人になる升田幸三に香車を引かれる事件(名人にもかかわらず、勝数ルールの関係で挑戦者にハンデをつけられた)”がこの年齢。

大山康晴十五世名人は、次代のエース中原誠に次々とタイトルを奪われた年齢。

そしてその中原誠十六世名人は、名人戦でライバル・米長邦雄(49歳)に敗れ、無冠になった年齢。

谷川浩司十七世名人がはじめてA級から陥落しそうになった年齢。

羽生さんと同い年の森内俊之十八世名人がA級から陥落し、順位戦を戦わない宣言をしたのが46歳の時。

棋士人生の節目とも考えられる46~47歳という年齢で竜王位についたことも、羽生さんの偉業のひとつに数えられるでしょう。

 

前人未到の記録を打ち立て続ける羽生さんは、永世七冠の達成により、ある意味、“わかりやすい目標”というのは失いました。ただ、“最年長記録”という方向へ視点を変えると、まだまだ羽生さんに挑んでほしい目標はたくさんあります。

前出の加藤一二三九段の最年長勝利(77歳0か月)のほかに、大山康晴十五世名人の最年長タイトル保持(59歳)、最年長タイトル挑戦(66歳)、最年長A級=将棋界のトップテン(69歳)…。

 

20~30年先の話になりますが、これらの記録に羽生さんはどんな立場で挑むのか?どんな将棋を見せるのか?そして羽生さんが今の“ひふみん”と同じ年になったころ、藤井聡太四段は40代の半ば。今の羽生さんと同じくらいの年齢になっているわけですが、そこまでの間でどんな記録を打ち立てていくのか。ここも見ものです。

 

1985年12月のデビューから丸32年。

羽生さんにとって、おそらくまだ折り返し地点。

羽生さんを見始めるのに、早い遅いはありません。

昔からこのスタイルです。

今からでも遅くありません。

待ち焦がれた「竜王」を獲得し、永世七冠というひとつの「伝説」を作り上げた羽生さんの第2章は、今はじまったばかりです。

 

 

いつまでも彼の将棋を観てみたいですね。

 

 

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