1969年「川崎市高校生首切り事件」犯人のその後

 

3日放送の「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ)で、ノンフィクション「心にナイフをしのばせて」の著者・奥野修司氏が、高校生首切り殺人事件の犯人の出所後を明かしていた。

番組では奥野氏をゲストに迎えて、1969年に神奈川・川崎市で起きた高校生首切り殺人事件を取り上げた。

この事件は、1997年兵庫・神戸市で児童5人が殺傷された「酒鬼薔薇聖斗事件」の類似事件として知られる。

奥野氏の取材によると、犯人の元少年は少年院出所後に戸籍を変え、弁護士として裕福な生活をしているそうだ。

奥野氏いわく、元少年から年賀状をもらった人物と接触したそうで、記載された住所を訪れると法律事務所があり、調べたら名を変えた本人だったそうだ。

さらに、奥野氏は被害者家族へ謝罪するよう説得を試みたものの「なんでおれが謝るんだ」と罪の意識が見られなかったと振り返っていた。

 

1969(昭和44)年4月23日16:20、川崎市向ヶ丘1765の私立サレジオ高1年の加賀美洋(15)が学校の校庭の裏にある、250メートル離れて東名高速をくぐった向かって左脇にあたるつつじ畑で首を切られたと、加賀美と一緒にいたという同じく1年のM少年(15)が学校に訴え出た

Mも2ヶ所を怪我しており、3、4人の男に襲われたと証言した。被害者は47ヶ所を滅多刺しにされて発見され、首は死後に切断された様子で、凶器のジャックナイフが見つかった。
 
当初から15歳少年が疑わしいという声があったものの、学校側では捜査員が校内に立ち入る際にもヨハネ・ペトゥ校長自ら1人1人首実検してから通すという対応で、少年の取り調べにも校長や父親などを立ち会いの下で行うように警察に要求、受け入れないと取り調べはさせられないとするなどの状況もあり、遅々として捜査が進まないでいたが、4月25日6:15、警察署内での取り調べへと切り替えたところ、少年は犯行を自供した。

被害者におわびの言葉を述べたが、20:30には出されたカツ丼を残さず食べるなど余裕も見せていた。
 
少年の父はセミナー会社社長で、母は病弱だったという。祖父は樺太帰りで銀座でかつて貸金業をしていたが、少年の父は祖父の仕事を嫌い、事業は受け継いでいなかった。

少年は小学校から高校までミッションスクール、目黒の私立星美学園小からサレジオ中、高と進んでいた。テニスが得意で図書委員も務め、妹より背丈が低い150センチと小柄で太っていたという。

性格は陽気で、弁護士になるのを夢としていて、中学時代から六法全書を愛読書としていた。しかし中学時代には些細な喧嘩から、同級生を突き飛ばして腕の骨を折るといった事件も起こしていたが、表沙汰にならないように処理されていた。

少年は被害者とは中高とずっと同じクラスで、傍目にはむしろ親しく見えたという。被害者は少年より無口だったが、170センチとやや大柄で、他人の欠点を付く毒舌で笑いをとるのを得意にしていて、少年をよくからかいの対象として同級生の笑いをとっていたが、それは殺人に至るまでのいじめと呼べるようなものではないと周囲には思われていた。
 
少年はかねてから被害者の見下げたものの言い方が鼻についており、表面上は親しく付き合いながらも不満が鬱積していたという。背中に毛虫を被害者に入れられるなどの仕打ちも、ひどく不快に思っていた。

中学時代に少年がその体型からつけられた「コブタ」というあだ名も、当時流行していたエースコックのラーメンテレビCMの「ブタブタコブタ、お腹がすいた、ブタブタコブタ、こいつに決めた」と連呼する囃子文句から被害者が付けたのではないかと、同級生たちは思っていたほどで、被害者は悪意は無かったとしても、自分の気にしている身体的特徴を笑いのネタにされた少年の心の奥底には被害者への憎悪が滓のように溜まっていたともいう。

さらに高校でも同じクラスとなった事で、少年は新しく高校で一緒になった別な中学からの進学者にも、被害者が少年に対して中学時代にしていたからかいが伝染し、バカにされるのではないかとひどく恐れていた。
 
事件当日も14:55、1人の生徒が少年の辞書を取り上げて嫌がらせをしたのを、被害者が追い討ちをかけるように横からビニール袋に入れた毛虫を辞書に挟むふりをして周囲の笑いをとっていた。

腹に据えかねた少年は被害者を散歩に呼び出したが、被害者は掃除当番だったため、先に寮に帰った少年を被害者が迎えに行く形で、15:30、2人は事件現場へと向かった。少年は被害者を脅してやろうと4月に鷺沼駅近くの商店で万引きしたナイフを隠し持って出たが、そのナイフに気付いた被害者は少年を畏れるどころか、「いいナイフじゃねえか」とさらにバカにするような口調で応じたため、少年の憎悪はますます募ったという。
 
現場に着いた2人だったが、先に少年は東南の土手に登り、被害者は1人で西側の土手に登った。少年は被害者が土手から降りてきたらナイフで刺してやろうと思い、待ち構えて被害者の後ろから首筋にナイフをあてがったところ、被害者が振り向いたので、トドメを刺そうと滅多刺しにしたという。

そして殺害した被害者が、万一、生き返ったりしたら自分の犯行がばらされるという恐怖に取り付かれ、10数分かけて首を切断、少年は他人の犯行を装うため、自分自身もナイフで傷をつけて、学校へ「通り魔殺人」の被害者として駆け込んだのだった。三浦綾子は「人間は底なく恐ろしいものだ」と感想を述べている。
 
被害者と少年は4月7日から学修寮での生活を始めていた。寮での生活は6:30に起床、そしてミサが行われ、外泊は月に1回のみ、門限は20:00というものだった。

漫画は置いておらず、テレビや週刊誌は禁止、なお寮生によれば寮のテレビは届出をすれば視聴はできたが、暗黙の了解のようなものがあり、結局、年に1度見れればいい方であった。寮では4人1部屋の生活だったという。

4月17日にはキリスト教徒であった被害者と一緒に少年はカルロ・キエザ神父の下に出向き、洗礼したいと申し出ていた。

その心境についてはよくわからない。寮の日記に少年は4月21日、「どことなくなじめないところがある」と寮生活の感想を述べながらも、早くこの生活になれて自分のものとしたいとの記述を残していた。
 
事件後、少年は少年院に送られたが、名前を変えて社会復帰して中学時代の夢を実現した、と1997(平成9)年の「文藝春秋」誌上に掲載された。

被害者の家族には少年の父から2年間、月2万円ずつ送金され、それが受けた補償のすべてであった。少年の父はアパート経営をしようと建築したばかりの家作から財産からすべてを、事件以降に突然、判明した祖父の借金のカタとして、事件を知ってより入れ代わり立ち代わり出現した暴力団関係者などに取り立てられて失ったという。

 

1969年横浜市で起きたサレジオ学園同級生首切り殺人事件被告少年Aこと、現在は「日比谷パークサイド法律事務所」所属弁護士「石川一郎」

ナイフは万引きで調達
顔を含め全身47箇所メッタ刺し
首切り落とすのに10分?以上。
切った首を蹴っ飛ばす。
自分をナイフで切る
ナイフは土に埋めて隠蔽。
ケーサツに事情を聞かれて、「通り魔の犯行でつ、エへ♪」

被害者遺族は、その日暮らしのヒモジイ生活。
だけど石川一郎もこの事件が原因でまとも人生は送れてないと
同情すら感じていた被害者の母。しかし現実は、違った。
30年以上経ち、少年はなんと石川一郎となって遺族の元を訪れる。
そのとき石川一郎の口から出た言葉は…

石川一郎 「賠償金? なにそれ? 金なら貸すよ。ハンコもってこいや」
石川一郎

1953年12月15日 誕生

1969年4月23日 事件発生(川崎のサレジオ高校1年)
背が低くて太り気味で、背丈に比べて顔が大きく眉毛が太かった

1969年5月28日
身長159cm 体重57.5kg 胸囲84cm 両眼とも近視 IQ 109 分裂病質

1975年
現在の姓(父親の愛人の姓)に改姓
慶應大学入学

1979年
慶應大学卒業

1982年~
学習院大学卒業
結婚(その後離婚)
東京近郊に小さなマンション購入

現在
地方都市で日比谷パークサイド法律事務所(四階建てビル)のオーナー、弁護士 優雅な趣味を持つ

小5:意志を強く主張、他人攻撃するため嫌われる傾向

小6:意見が強すぎて反対に批判をかう

中1:感情に走りやすく粗暴

中2:かっとなるとわからなくなることがある
→K部S一君の腕を捩じって骨折させた

公共物を大切にしようと主張しながら物品を壊す
→学校のロッカーを壊した

中3:卒業時近くに悪質ないたずらが数件、いずれも未解決。
→そのうちの1件は、友人の学生カバンのチャックをカッターで切断した件

高1:4月14日(あるいはその前後の月曜日)登山ナイフを万引き
4月23日 友人を上記登山ナイフで47箇所メッタ刺し後首切断

 

03年頃ニュースステーション久米と対談してた。(画像、音声処理ありだった)
謝罪も、賠償金の支払いも、一切してないし、するつもりもないとのこと。

彼は言った。

「未成年でしたから、前科なんて付きませんよ。 私が弁護士をしてるのは私の能力だし、その収入は私と家族のために使います。 法的にみて、全く何の問題もありません。 幸せに暮らしてます。 少年事件は匿名性が極めて高いので、誰もこのことは知りませんしね。」

殺した少年と、その遺族に対する思いについて聞かれても、なんの思いもないと言う。

 

いやはや、すごい人間が実在するものです。

 

 

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