「高倉健」養女の謎 40億円の遺産と雲隠れ

 

2014年11月、俳優・高倉健が83歳で亡くなった。
しばらくして週刊誌などが小田貴という養女の存在を報じた。養女は、40億円といわれる遺産を受けついだが、その死を実妹にも知らせず、いまだに遺族には会おうともしないのだという。
名優の謎に迫った『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』(講談社)の筆者・森功氏に、元「週刊現代」編集長の元木昌彦氏が聞いた――。

 

■20代の若造に「よろしくお願いします」と頭を下げる

長嶋茂雄、吉永小百合、高倉健。

1970年、私が編集者になった頃、死んでも会いたいと思ったのが、この3人だった。

長嶋とは引退後に何度か食事をした。雑誌の対談に出てもらったことがある。サユリにはグラビアの撮影などでも会ったが、強く印象に残っているのが、川端康成の葬儀の日のことだ。

新米社員だった私は、裏木戸を見ていてくれといわれた。

葬儀が始まってしばらくすると、木戸口から入ってくる女性が目に入った。

遠目からでも吉永小百合だとわかった。

初心な私は、彼女を案内する間、口もきけず倒れそうなぐらい緊張した。喪服のサユリはため息が出るほどきれいだった。

 

高倉健には2度インタビューで会っている。

最初は新作映画の記者会見場だったと記憶している。立ち話だったが、「よろしくお願いします」と20代の若造に丁寧に頭を下げた。

『昭和残侠伝』の花田秀次郎がそこにいた。

2度目は、たしか青山にあった彼の行きつけの喫茶店だったと思う。

緊張していたので何を話したかは忘れたが、コーヒーの話題を覚えている。

コーヒー好きで知られる高倉健だが、日に何十杯も飲むからインスタントでも何でもいいんです、そういって照れたように頭をかいた。

 

■高倉の最後を見届けた唯一の人間

男が惚れる男というのは彼のようなことをいうのだろう。

もともとファンだった私は、彼の行きつけの店をいくつか回った。

京都のイノダコーヒーはもちろん、田中邦衛に教えられた嵐山・渡月橋近くの「霧そば」、喫茶店「花の木」。

ハワイのベトナム料理店「マイラン・ベトナミーズ・レストラン」ではサムに高倉健専用ルームに案内してもらって、彼とツーショットを撮ってきた。

健康フリークで、ヒマがあれば運動をしていた彼も、『単騎、千里を走る』(2005年)あたりから年を感じさせ、遺作になった『あなたへ』(2012年)では老いが目立った。

 

2014年11月10日悪性リンパ腫で死去、享年83。

 

死後、しばらくしてから、彼に養女がいたことが報じられた。

小田貴という女性だ。高倉の最後を見届けた唯一の人間。40億円ともいわれる遺産を受け継いだ。

だが不可解なことに、彼女は高倉の死を福岡にいる高倉の実妹にも知らせず、死後2日で火葬してしまったのである。

実妹が、遺骨を分けてほしいというと、遺言で散骨してくれといわれたからと断っている。

彼女の「奇行」が週刊誌で報じられるようになる。

生前、死んだらここへ入ると高倉がいっていた鎌倉霊園の墓地を更地にしてしまった。

ここには結婚していた江利チエミがはらんだが、事情があって産めなかった水子墓もあった。

 

■なぜ「高倉健」の痕跡を消し去ってしまうのか

クルマ好きで、多いときは20台ぐらい所有していたといわれる高級車も売り払い、手を入れれば立派に使えるクルーザーも解体してしまった。

高倉との思い出が詰まっていたであろう世田谷区瀬田の家も壊して、新築した。

なぜ、そうまでして高倉健という俳優が生きた痕跡を消し去ってしまうのだろうか。ファンならずとも疑問を感じてしまうのは無理のないことであろう。

その謎に挑戦したノンフィクションが講談社から出版された。

『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』、書いたのはノンフィクション・ライターの森功である。

 

彼は高倉健が出た福岡県立東筑高校の後輩。高倉は高校でボクシング部と英会話のESSクラブも創設し、ESSは今も残っているという。

明治大学に入り相撲部に入部した。学生時代はけんかと酒に明け暮れ、「明治の小田(高倉の本名は小田剛一<おだたけいち>)」と恐れられた。

酒癖が悪く、物を壊す癖があったと、自らインタビューに答えている。それもあって、俳優になったら酒は飲まないと決めたようだが、その克己心には頭が下がる。

 

■大歌手・江利チエミとついに結婚するが……

この時期、戦後「銀座警察」と異名をとった、後の指定暴力団「住吉会」の幹部たちとの交友もあった。

中でも明治の1年後輩で後に住吉の理事長にまでなる直井二郎とは親しかったそうだ。

大学を出ても就職口がなく1年就職浪人をしていたが、知人に美空ひばりの事務所を紹介された。

東映本社の喫茶店にいる時、東映の重役にスカウトされたという話は有名だが、森によると、東映専務だったマキノ光雄(兄は映画監督のマキノ雅弘)だったという。

若いときからファンだった憧れの江利チエミと共演する機会を得て、結婚することになるのだが、美空ひばりや十朱幸代などからも愛を告白されたそうである。

大歌手・チエミを追いかけまわし、ついに1959年2月16日に結婚する。この日は高倉の誕生日でもあった。

徐々に売れ出した高倉にとって、一番幸せな時期であったのだろう。

残念ながら子供はチエミの体の問題があり産めなかったが、彼女も精一杯高倉のことを愛した。

だが、チエミが縁戚の女の詐欺にあい何億という借金を背負ってしまう。そこから結婚生活は暗転していく。

12年半の結婚生活に終止符を打ち、その後、チエミは一人寂しく亡くなってしまう。

高倉は生涯チエミのことを好きだったといわれる。

それが証拠に、新婚旅行で行ったハワイには別荘も買い、撮影が終わるとちょくちょく出かけていた。

 

■「おだたけいち」ではなく「おだごういち」に

映画『鉄道員(ぽっぽや)』の中で、チエミの代表曲「テネシーワルツ」を使っている。

2人は瀬田の自宅からすぐの法徳寺に墓を買っていた。高倉はチエミの月命日には闇に紛れて墓に手を合わせてきたという。

だが、離婚後もチエミのことを好きだったと彼の口から語ったことは、私が知る限りない。チエミはステージでもよく『唐獅子牡丹』を歌っていたのだが。

 

話を急ごう。この本の白眉は、高倉と養女との馴れ初めや、彼女の不可解な行動の謎に迫った章である。

森は、養子縁組の際の入籍申請書類を見ている。養女になった貴の母親と、高倉の従弟(高倉プロの専務・当時)のサインがある。

だが不思議なことに、高倉の本名である小田剛一のふりがなが「おだたけいち」ではなく「おだごういち」になっているのだ。

それも従弟のところには、何も書かれていない申請書を持ってきて、サインしてくれといわれたというのである。

高倉の実妹や親族たちは森に対して、高倉の死を知らされなかった悔しさを隠さない。いまだに養女とは会えず、弁護士を通してくれといわれているそうだ。なぜこうまでかたくなに実妹や親族を拒むのだろう。

 

■「バレた、どうしよう」

そのくせ、高倉が死ぬ直前までCMに出ていた九州の会社には飛んで行って、高倉の死後もCMを放映してくれと、彼の死をマスコミ発表より早く知らせに行っている。

週刊誌のインタビューにも答えているのに、生前高倉ときわめて親しかった人間たちとは会おうともしない。

貴の経歴も、高倉の出会いもよくわかっていない。

仕事をしていた「チーム高倉」のメンバーも、彼女の存在をほとんど知らなかったという。森によると、貴は貴倉良子という名で女優やテレビリポーターをしていたそうだ。大部屋女優から、ホテルジャーナリストに転身しているという。

知り合ったのは1990年代後半。どうやら香港のホテルで知り合い、その後意気投合したらしい。

彼女に会った数少ない人間も、彼女は家政婦だと思っていたと語っている。

 

親族たちが、高倉に何か異変があったのではないかと気づき、電話をあちこちにかけた。

それを知った貴は、「バレた、どうしよう」と慌てふためいたそうだ。

そして、高倉の匂いを消すかのように家を壊し、墓を更地にし、愛車やクルーザーも処分してしまったのだ。

こんな話がある。棺桶をどうしようかという話になった時、貴は、「一番質素なものでいい」といったそうだ。さすがにそれはないだろうということで、従弟が桐の上等なものにさせた。

昨年末からステーションギャラリーで「高倉展」が始まったが、それを皮切りに全国でイベントを行っているが、人前に出ないわりにはそうしたことには熱心なのだ。

 

■遺産だけでなく、映画の権利なども手に入る

さらに不思議なことに、生前高倉と親しかった人間たちが、口裏を合わせたように、かたくなと思えるほど、高倉との思い出を語らないのだと、森はいった。

森にいわせると、結婚ではなく養女になったのは、高倉健の遺産だけでなく、これからも入ってくる映画の権利など、もろもろの収入も手に入れられるからだそうである。

私にはよくわからないが、もしそうだとしたら、法律に詳しい人間が彼女の後ろにいるのだろうか。

疑念は膨らむばかりである。森は、彼女がそうした行動に走った理由について、こう推測している。

「心の底で燃やし続ける瞋恚(しんい)の炎が、彼女を駆り立てるのではないか」

 

■「人の世の栄華とは何を指すのだろうか」

それは、高倉本人への憎悪なのか、彼が残像を追い続けた江利チエミという女性への嫉妬の炎なのだろうか。

 

森は結びでこう書いている。

 

「人の世の栄華とは何を指すのだろうか。生涯をまっとうするとは、いったいどういうことなのか。

高倉の人生に接していると、そんな疑問が湧く。生きる伝説とまで称されながら、その生きざまはわれわれと同じように、いやそれ以上に泥臭く、奥深い悩みを抱えてきた。

きらびやかなスポットライトの裏で必然的に生まれる陰影に支配されてきたともいえる」

 

高倉健という名を汚さず、理想の俳優像を作り上げようと必死に"演技"してきたのであろう。

ハワイのベトナム料理屋で、物置のような質素な部屋で高倉健が一人食事している姿を思い浮かべた。

 

200本以上の映画に出演し、日本一の俳優になった男が得たものは何だったのだろう。

有名になればなるほど孤独になる。

その孤独に耐えられない人間は、その道を選ぶものではない。

高倉健なら、そう答えるのではないか。

 

死してなお謎めく「いい男」ですね。

 

 



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