よど号ハイジャック 実行犯の今

 

日航機よど号をハイジャックし、今も北朝鮮で暮らしている実行犯メンバーらの最新の様子がわかった。

1970年赤軍派のメンバーが日航機よど号をハイジャックし、北朝鮮に亡命してから、今年で49年となる。

今月3日に撮影された写真には、実行犯メンバー・小西隆裕容疑者ら4人と妻2人が平壌市内の焼き肉店などを訪れた様子が映っている。

このうちの3人はヨーロッパで日本人を北朝鮮に拉致したとして、国際手配されている。

メンバーらは、「今年は日朝関係が大きく変わる年だ」と期待しつつ、「安倍政権のうちは帰国しない」と話している。

 

よど号ハイジャック事件

概要

1970年3月31日、羽田空港発板付空港(現:福岡空港)行きの日本航空351便(ボーイング727-89型機、愛称「よど号」)が赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。

犯人グループは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。

よど号は福岡空港と韓国の金浦国際空港での2回の着陸を経た後、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。

運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたものの、山村新治郎運輸政務次官が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員と共に北朝鮮まで同行した後に帰国した。

なお、「よど号(淀号)」とは、ハイジャックされた機の愛称で、当時の日本航空は保有する飛行機1機ごとに愛称を付けていた。ボーイング727型機には日本の河川の名前があてられており、よど号の愛称は淀川に由来する(その他のボーイング727型機の愛称には「ひだ号」「たま号」「ふじ号」「とね号」があった)。

 

事件の背景

かねてより赤軍派は、国内での非合法闘争の継続には後方基地(国外亡命基地)としての海外のベースが必要であると考え(国際根拠地論)、海外にメンバーを送り込む計画を立てていた。

ところが、1970年3月15日に赤軍派議長の塩見孝也が逮捕される。

逮捕された際、塩見は「H・J(Hi Jackの意)」と書かれたハイジャック計画に関するメモを所持していたが、当時の公安警察はメモの「H・J」がハイジャックを意味するものだとは気付かなかった。

身辺に捜査が及ぶことを恐れた田宮高麿をリーダーとする実行予定グループは、急遽3月27日に計画を実行に移すことを決定。

しかし飛行機に乗り慣れていなかった犯人グループの一部が遅刻したために計画を変更。実行は4日後の3月31日に延期された。

 

ハイジャック実行

1970年3月31日、午前7時33分、羽田空港発板付空港(現在の福岡空港)行きの日本航空351便が、富士山上空を飛行中に日本刀や拳銃、爆弾など武器と見られる物を持った犯人グループによりハイジャックされた。犯人グループは男性客を窓側に移動させた上で、持ち込んだロープにより拘束し、一部は操縦室に侵入して相原航空機関士を拘束、石田機長と江崎副操縦士に平壌に向かうよう指示した。

板付空港へ

この要求に対し江崎副操縦士は「運航しているのは福岡行きの国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」と犯人グループに説き、給油の名目で午前8時59分に当初の目的地である板付空港に着陸した。なお実際は予備燃料が搭載されていたため、平壌まで無着陸で飛行することが可能であった。

警察は国外逃亡を阻止すべく機体を板付空港にとどめることに注力し、自衛隊機が故障を装い滑走路を塞ぐなどのいくつかの工作を行うが、かえって犯人グループを刺激する結果になった。焦った犯人グループは離陸をせかしたが、機長の説得によって人質の一部を解放することに同意。午後1時35分に女性・子供・病人・高齢者を含む人質23人が機を降りた。

「北朝鮮」へ

同日午後1時59分、よど号は北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。

機長が福岡で受け取った地図は中学生用の地図帳のコピーのみで、航路の線も引かれていない大変に粗末なものだった。ただ、この地図の隅には「121.5MCを傍受せよ」(MCとはメガサイクルの略。現在のメガヘルツと同じ。民間航空緊急用周波数)と書かれており、機長と副操縦士はこれに従って飛行した。

よど号は朝鮮半島の東側を北上しながら飛行を続け、午後2時40分、進路を西に変更した。この前後、突如よど号の右隣に国籍を隠した戦闘機が現れる。戦闘機の操縦士は機長に向かって親指を下げ、降下(または着陸体勢)に入るようにとの指示を行うと飛び去った(国籍を隠しておらず、韓国空軍章を表示したままの戦闘機が現れたという説もある)。

よど号は北緯38度線付近を飛んでいた。実際にはよど号は北緯38度線を越えていたのだが、休戦ラインは完全に北緯38度線に沿っていないため、まだ韓国領の中にいた。のちに誤情報と判明するが、この際に北朝鮮側から機体に対し対空砲火が行われたとの情報が飛び交った。

北朝鮮に入ったと考えた副操縦士は、指示された周波数に対して英語で「こちらJAL351便」と何度も呼びかけたが、なかなか応答が返ってこなかった。

その後、同機に対し「こちら平壌進入管制」という無線が入る。無線管制は、周波数を121.5MCから134.1MCに切り替えるよう指示し、機体は誘導に従う形で左旋回し、再び北緯38度線を跨いで南下した。これは韓国当局によるもので、機体を北朝鮮に向かわせないためのとっさの行動であった。

機長の石田は周波数が資本主義圏で使用するものであったことから無線は平壌からでないことを悟ったが、犯人グループは、亡命希望先の北朝鮮の公用語である朝鮮語はおろか英語もほとんど理解できなかったため、これらのやりとりに対して疑問を呈することはなかった。

 

ソウルへ着陸

午後3時16分、同機は平壌国際空港とされる場所に着陸する。実際には韓国のソウル近郊にある金浦国際空港で、韓国兵は朝鮮人民軍兵士の服装をして、「平壌到着歓迎」のプラカードを掲げるなどの偽装工作を行っていた。

しかしメンバーの一人が金浦国際空港内にノースウエスト航空機などが駐機しているのを発見し異常に気付く(この点については、「航空燃料タンクの商標」、「シェル石油のロゴのついた給油トラック」、「犯人グループが持っていたラジオをつけたらジャズやロックが流れた」、「ジープに乗ったネグロイドの兵士がいる」、「フォードの車が動いている」、「北朝鮮の職員に偽装した韓国の警官が、『日本の大使が待っています』と発言した」など、諸説ある)。

犯人グループは機体に近づいてきた男性に「ここはピョンヤン(平壌)か?」と尋ねた。

男性は「ピョンヤンだ」と答えたが、犯人がさらに北朝鮮における五カ年計画について質問したため、答えに窮してしまう(「九カ年計画の三期目と答えた」との説もある。

また、他の軍人に「ここはソウルか?」と尋ねたところ、事情を知らないその軍人は「ソウルだ」と答えた。こうした食い違いは、当事者の少なさやその当事者の後日談による部分が多いためだと考えられる)。これを見た犯人は、畳み掛けるように「キン・ニチセイ」(金日成)の“大きな”写真を持ってくるように要求したが、北朝鮮の敵国である韓国においてこの写真は当然用意することもできず、犯人グループは偽装工作を確信する(写真の件については諸説あり、用意できたという説もある)。

 

交渉

金浦国際空港に着陸後、韓国当局は犯人グループと交渉を開始。犯人グループは即座に離陸させるように要求したものの、韓国当局は停止したエンジンを再始動するために必要となるスターター(補助始動機)の供与を拒否。この結果、よど号は離陸することができなくなり、事態は膠着する。犯人グループは強硬な態度を保ったものの、食料等の差し入れには応じた。

また、31日の午後には日本航空の特別機が山村新治郎運輸政務次官ら日本政府関係者や日本航空社員を乗せて羽田空港を飛び立ち4月1日未明にソウルに到着。韓国政府の丁来赫(チョン・ネヒョク)国防部長官や白善燁(ペク・ソニョプ)交通部長官、朴璟遠(パク・キョンウォン)内務部長官とともに犯人グループへの交渉に当たることになった。

膠着状態

この後、よど号の副操縦士が犯人グループの隙を見て、機内にいる犯人の数と場所、武器などを書いた紙コップをコックピットの窓から落とし、犯人のおおよその配置が判明した。韓国当局はこの情報を基に特殊部隊による突入を行うことも検討するが、乗客の安全に不安を感じた日本政府の強い要望で断念する。



日本政府は、ソビエト連邦や国際赤十字社を通じて、よど号が人質とともに北朝鮮に向かった際の保護を北朝鮮政府に要請した。これに対して北朝鮮当局は「人道主義に基づき、もし機体が北朝鮮国内に飛来した場合、乗員及び乗客は直ちに送り返す」と発表し、朝鮮赤十字会も同様の見解を示した。だが、韓国にとって、前年に発生した大韓航空機YS-11ハイジャック事件の乗員乗客がこの時点で解放されていなかったこともあり、よど号をその二の舞として人質の解放がなされないままに北朝鮮に向わせることは、絶対に避けなければならないことであった。

日本政府はさらに、犯人グループが乗員を解放した場合には、北朝鮮行きを認めるように韓国側に強く申し入れ、韓国側は最終的にこれを受け入れた。なお、よど号には日本人以外の外国籍の乗客としてアメリカ人も2人搭乗しており、北朝鮮に渡った場合、「敵国人」であるアメリカ人が日本人に比べて過酷な扱いを受ける懸念があったため、アメリカ合衆国連邦政府が善処を求めている。

乗客解放

1日午後には橋本登美三郎運輸大臣もソウルへ向かい、金山政英駐韓特命全権大使らとともに韓国当局との調整に当たった。数日間の交渉を経た4月3日に、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりとして人質になることで犯人グループと合意。犯人グループの1人である田中義三と山村が入れ替わる形で乗り込む間に乗客を順次解放し、最終的に地上に降りていた田中と最後の乗客1人がタラップ上で入れ替わる形で解放が行われた。

また、乗員のうち客室乗務員も機を降りることが許された。解放された人質は日本航空の特別機のダグラス DC-8-62(JA8040、飛騨号)で福岡空港に帰国した。

なお犯人側から山村政務次官の身元について日本社会党の阿部助哉衆議院議員に証明を行ってほしい旨の依頼があり、4月2日に阿部議員がソウルに渡り、山村政務次官の人物証明を行った。

北朝鮮へ

4月3日の午後6時5分によど号は金浦国際空港を離陸、北緯38度線を越えて北朝鮮領空に入った。機長はこの時点でもなお、まともな地図を持たされておらず、北朝鮮領空に入った後も無線への応答や北朝鮮空軍機によるスクランブル発進もなかった。平壌国際空港を目指して飛行を続けたものの、夕闇が迫ってきたため、機長は戦争中に夜間特攻隊の教官をしていた経験を生かし、肉眼で確認できた小さな滑走路に向かい、午後7時21分に着陸した。

この滑走路は平壌郊外にある朝鮮戦争当時に使用されていた美林飛行場(英語版)跡地だったと言う。

対応した北朝鮮側は武装解除を求めたため、犯人グループは武器を置いて機外へ出た。なお、武装解除により機内に残された日本刀・拳銃・爆弾などは、全て玩具や模造品であったことが後に判明した。よど号に乗っていた犯人グループ9人、乗員3人、人質の山村の計13人の身柄は北朝鮮当局によって確保された。

NHKが午後7時30分から放送した報道特別番組「よど号の乗客帰る」はビデオリサーチ・関東地区調べで43.0%の視聴率を記録した。

亡命受け入れ

よど号が到着した後、北朝鮮側は態度を硬化させ、「乗員や機体の早期返還は保証できない」と表明。日本政府がなすべきことをせず、自分たちに問題を押し付けたとして非難した。

また犯人グループと乗員、山村政務次官に対しては公開による尋問が行われ、長期間の抑留が想定される厳しい状況になった。ただし、乗員と山村に対して行われた尋問は形式だけのものであり、朝鮮料理の食事と個室が与えられた上で(「休みたい」という本人たちの意思は無視されたものの)、映画鑑賞が用意されるなどのもてなしが提供された。

4月4日、北朝鮮は再度日本を非難をする一方で、「人道主義的観点からとして機体と乗員の返還を行う」と発表。同時に“飛行機を拉致してきた学生”に対し必要な調査と適切な措置を執るとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表した。

人質帰国

翌日4月5日早朝、乗員たちは出発準備のために美林飛行場へ移動する。ところが、北朝鮮にはボーイング727に対応するスターター(補助始動機)[5]がなかったため、一時は出発が危ぶまれた。

日本航空はモスクワ経由でエンジンスターターを届けるべく手配を開始したが最終的には圧縮空気ボンベを現地で調達し車両用のバッテリーで機内のバッテリーに充電を行いエンジンが始動できた。空港を離陸したよど号は、北朝鮮側から飛行経路を指示されそのエリアを通過後、日本国内上空からよど号を呼ぶ日航機を経由して無線で脱出を報告。

直接羽田へ向かう事を連絡した機長、副操縦士、航空機関士、山村政務次官の4人を乗せて帰路に就き、美保上空を経由し羽田空港に到着。彼らが無事に帰国したことにより事件は一応の収束を見た。

この日の朝にNHKが放送した報道特別番組はビデオリサーチ・関東地区調べで40.2%の視聴率を記録した。

 

 

機長

よど号の機長であった石田真二は、帰国後に勇敢な操縦士として持ち上げられ、時の人となるが、プライベートなトラブルを週刊誌に書き立てられた結果、日本航空を退職することになってしまった。

晩年は夜間の駐車場警備員を務めた。その後、2006年8月13日に他界した。なお、石田は戦時中、夜間特攻隊の教官をしていた

副操縦士と機関士

操縦士江崎悌一と機関士相原も帰国後は機長と同じくマスコミに賞賛された。その後も日本航空の副操縦士と機関士として乗務を続け(江崎は後に機長に昇格)、後に定年退職した。

運輸政務次官・山村

運輸政務次官山村新治郎は、乗客救助の功により内閣総理大臣顕彰を受賞した。

この件により一躍郷土の英雄となり、「男・山村新治郎」のキャッチフレーズで当選を重ね、後に農林水産大臣や運輸大臣を歴任する。1992年4月12日、自民党訪朝団長として北朝鮮への訪問を翌日に控える中、精神疾患を患っていた次女により刺殺された。

乗客

韓国で解放された乗客は日本航空の特別機で日本へ帰国したが、乗客の1人であったアメリカ人神父はこの特別機に搭乗せずにソウルで一泊し、翌4日に日本に到着した。

解放後一時的に韓国へ入国したものと推測されたが、日本政府にも日本航空にもその行方が知らされなかったために疑念を呼んだ。事件後、幼児二人を除く全ての乗客に対し日本航空から「お見舞金」が支払われた。

事件当日は福岡で日本内科学会総会が行われる予定であったため、乗客には医師が多く含まれていた。

この医師らは、福岡で「病人」との理由で解放されることになる人質の選定に協力した。なお、その中に虎の門病院院長の沖中重雄や聖路加国際病院内科医長の日野原重明がいた。

日野原の著書によれば、対馬海峡を過ぎた頃、客席側にいた犯人グループの一人が乗客に対し、「自分たちが持ち込んだ本をもし読みたければ貸し出す」と言ってきた。その本は、赤軍派の機関紙「赤軍」、レーニン全集、金日成の伝記、毛沢東の伝記、『共産党宣言』、親鸞の伝記、伊東静雄の詩集、『カラマーゾフの兄弟』などであった。ただ、実際に乗客の中で犯人から本を借りたのは、『カラマーゾフの兄弟』を借りた日野原のみであったという。

当時東京大学の学生であった舛添要一は、郷里の福岡に帰るため当該便の搭乗券を購入していたが、前日の夜に仲間と酒を飲んだ影響で搭乗することができず、難を逃れている。

また、この旨を記した手紙を当時舛添は自分の親に宛てて送付しているが、この手紙はよど号で福岡に届けられる予定であった。後日、舛添本人のもとに返送されてきている。

なお乗客の中の1人は1977年の日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件機に乗り合わせ、2度もハイジャックに遭遇することになった。

 

実行犯グループ

北朝鮮に渡った実行犯グループらは、メディアから「よど号グループ」と呼ばれている。

到着当初は「世界革命を進める同志」として北朝鮮政府から手厚い歓迎を受けたが、当時の世界情勢から照らし合わせても荒唐無稽と思われる「北朝鮮の赤軍化」という目的は即座に否定され、主体思想による徹底的な洗脳教育を受けたといわれている。

さまざまな証言から日本人拉致事件への関与が確実視される者もいるが、現時点では詳細は不明な点が多い。現在、グループのメンバーは警察庁により国際手配されている。

その後、吉田金太郎・岡本武・田宮高麿の3人は北朝鮮国内で死亡したとされるが、不審な点も指摘されている。また柴田泰弘と田中義三の2人は日本に帰国した後に裁判で有罪判決を受け、服役。

柴田は刑期満了による出所後の2011年6月23日に大阪市内のアパートで、田中は2007年1月1日に服役中にそれぞれ死亡した。現在、北朝鮮にいるのは小西隆裕・魚本公博・若林盛亮・赤木志郎の4人。

現在はTwitterアカウントやホームページ「よど号日本人村」を開設し、日本人拉致の冤罪・日本への帰国を求める主張を行っている。

 

 

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