1カ月で2億回再生された米動画の衝撃

 

ヒップホップの流儀

ここのところ、アフリカ系アメリカ人のアーティストの動きが際立っている。

不思議と一つの時代の空気を作り出しているようにすら思える。

 

そう思ったのは“This is America”というMV(ミュージック・ビデオ)を目にしたからだった。

 

前回取り上げたビヨンセ(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55525)や、ラッパー初のピューリッツアー賞を受賞したケンドリック・ラマーに続く衝撃だった。

 

チャイルディッシュ・ガンビーノは、ドラマ監督/脚本家/俳優として有名なドナルド・グローヴァーのラッパーとしての名であり――グローヴァー自身は「もう一つの自我(alter-ego)」と言っている――、この曲自体は、彼がホストとして出演した2018年5月5日夜の人気コメディショー「サタデーナイトライブ(SNL)」で初めて披露された。

 

それとほぼ同じタイミングでYouTubeで公開されたMVは、そこで表現された世界があまりにも衝撃的であったため、即座に話題を呼び、多くの議論を誘発した。

 

6月6日現在、YouTubeの再生数は2億3890万回を越えており、肝心の楽曲は、ビルボード・ホット100(5月19日付)で、ドレイクなど有名ラッパーを抑えて、トップにランクされていた。今、アメリカで最も注目される曲なのだ。

 

 

ともあれ何を語るにせよ、まずは実際にMVを見てもらうほうが早いだろう。

一見して、この曲/ビデオが、現代アメリカ社会における銃と黒人を巡るものであることは明白だろう。

銃殺した後、常に使った銃を黒人の少年に手渡しているところも、彼らに罪を押し付けたほうが話が早いことを暗示している。

 

こうした社会状況は、いわゆる“Black Lives Matter(BLM)”の運動に連なるもので、BLMは、アメリカで変わらず繰り返される、白人警官による黒人少年/青年に加えられる理由なき、あるいは短慮な暴力――最悪の場合は射殺――に対する抗議運動だが、このMVはそのような社会風潮を踏まえたものであることは間違いない。

 

ガンビーノがMVの中で演じるパフォーマンスだけでなく、白人警官が黒人少年を追いかける姿など、ガンビーノの背後で繰り広げられる様々なシーンにも注目すべきであり、その意味で、これはただのMVではなく、ビデオの映像まで含めての作品なのである。

つまり、ヒップホップの流儀は、ビデオの構成・制作の部分にまで及んでいる。

 

 

「白人」というカテゴリーの由来

その上で、見逃してはいけないポイントは、冒頭に表現された、19世紀中盤以降アメリカで大衆芸能になった「ミンストレル・ショー」の有名人物「ジム・クロウ」の格好を強調した場面だ。

 

身体をいったん奇妙にくねらせた上で、先ほどまで優雅にギターを奏でていた黒人のギタリストをわざわざ目隠ししてまで射殺する。

その時の「奇妙な姿勢」が「ジム・クロウ」の姿そっくりなのだ。

 

 

このように開始早々、ジム・クロウのふりをした姿を強調することで、このMVが、現代のミンストレル・ショーであることを、まずは宣言する。

 

同時にこれが「ショー」であること、すなわち黒人が白人によって射殺される様子が、一つのスペクタクルと化していることを強調する。

 

しかし、その上で、そのスペクタクルを駆動している「なんちゃってジム・クロウ」が、ガンビーノという本物の黒人だったという「はぐらかし」まで組み込まれている。

 

ミンストレル・ショーとは、もともと白人が顔を黒く塗り黒人のふりをして行うコメディだった。

そこでは黒人(のふりをした白人)の言動がいずれも嘲笑の対象とされることで、逆に、ヨーロッパ各地からアメリカに渡ってきた移民たちを、「白人」という言葉で一括りにする契機として機能した。

 

つまり、黒人という集団カテゴリーが立てられるからこそ、その対照として「白人」というカテゴリーが成立することになる。

 

それによって、アメリカの独立後に移民してきた、いわゆるブリテン島出身のアングロサクソン系以外の移民、すなわちアイルランドやヨーロッパ大陸のドイツやイタリア、あるいはユダヤ系の移民をも、等しく「白人」として一括りに捉える視点を確保することができた。

 

黒人=アフリカ人が存在することで、はじめて白人=ヨーロッパ人という括りが生じた。

それは19世紀を通じて、アメリカのナショナリズムを支える一つの鍵として機能していくことになる。

 

そして、その動きの副産物として、今日まで続く白人優越主義というエクストリームな主張をかかげる人びとも生み出されていく。

 

そのような「白人性」を確立するための民間における文化装置の一つがミンストレル・ショーであり、その代表的キャラクターがジム・クロウだった。

 

実のところ、アメリカのポップミュージックの創作において、白人性/黒人性の二項対立が弁証法的に機能してきたといういう事実もある(詳しくは大和田俊之『アメリカ音楽史』を参照のこと)。

 

そのため、原初の創作の動機づけという点でミンストレル・ショーやジム・クロウを単純に否定することも難しいのだが、その文化的伝統を踏まえた上で、グローヴァーは便利な二項対立に亀裂を生じさせようとする。

転覆を試みる。

 

それが、ジム・クロウのふりをすることを強調したMV冒頭のシーンだった。

それによって、グローヴァー/ガンビーノは、『「黒人のふりをした白人」を演じる黒人』、という二重の他者性をまとったシニカルな役回りを演じることになる。

 

自らのうちに他者の視点を埋め込むことで、視聴者にも同様の視点を取り込むよう、暗に促してくる。黒人と白人のどちらかを一方的に責めるわけでもなく、しかし両者に対して、この陰惨な状況が成立してしまう力学に思考を及ばせるよう仕向けるのだ。

 

加害者と被害者という非対称な関係を、想像の世界で転覆させる。

 

もっとも、そのような立場の入れ替えは、意外と最近のMVでは多く、逆に言えば、そのような転倒したMVを制作するところまでヒップホップの守備範囲は広がったようにも見える。

 

もともとヒップホップは、ラップ、DJ、グラフィティ、ブレイクダンス、の4つからなると言われていたのだが、最近ではもっぱらラップと同義語と捉えられることが多かった。

 

しかし、YouTubeというプラットフォームを得たことで、MV自体にもかつてのヒップホップ魂が宿ったようなのだ。そうしてグローヴァーは、原初のヒップホップにまで遡ってみせる。

 

 

ラップの新たな震源地

ところで、このような“This is America”のMVの政治性、社会性を踏まえると、グローヴァーが同時に、2016年に絶賛されたドラマ“Atlanta”のクリエイターであったことはいささか皮肉めいて見えてくる。

 

このドラマは、その名の通り、南部ジョージア州の大都市アトランタを舞台にした、ラッパーとそのマネージャーとなった従兄弟二人を中心にした――しばしば「超現実的」という形容がなされる――コメディ・ドラマだ。

 

少し補足しておくと、2010年代に入りアトランタは、ニューヨークとロサンゼルスを抑えて、ラップの中心都市の地位を確立した。

アトランタの台頭は2000年代から始まり、今では、次々と様々なラッパーが生まれてくる場所として機能している。

 

 

ラップの発祥地ニューヨーク=東海岸、映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』で描かれたギャングスタ・ラップを誕生させたロサンゼルス=西海岸に続き、アトランタは「第三の海岸(The Third Coast)」とまで呼ばれている。

 

アトランタのある南部ジョージア州は、黒人人口が多いににもかかわらず、長らく民主党が勝てない、その意味で白人主導の共和党的保守主義が優位にある州として知られている。

 

経済的には成長著しいブーミング・シティだが、同時に全米でも有数の貧富の差の激しい街であり、そんな街でラップが今、一番栄えているという事実がある。

 

だとすれば、民主党支持者が多数派でそれゆえ多様性を擁護する都市であるニューヨークやロサンゼルスとは異なる「情念」から生み出されるラップが、そこには息づいていると捉えるのが妥当だろう。

 

それがいわゆる「トラップ」とよばれるもので、ニューヨークやロサンゼルスのラップにあった「政治性」が極端に脱色されたものであり、その多くは、彼らの日常や心情を扱うものとなる(その限りで「生活保守」主義と通じる)。

 

脱政治化されることで、歌詞や曲調などの形式的音楽性の追求に傾斜し、そこから「ファッション」にも接近していく。

若手ラッパーのリル・ヨッティなどがほとんど女性的ともいえるファッションを身にまとう姿を見ると、ラップは闘うもの、というイメージがアトランタでは通じないことがよく分かる。

 

 

この点では、前回扱ったビヨンセや、西海岸的な政治的ラップを継承するケンドリック・ラマーとは立ち位置が随分異なっている。それがアトランタの音楽シーンだ。

 

そんなアトランタにおけるラッパーたちを主人公に据えたドラマが“Atlanta”だった。

 

つまり、一方では、ドナルド・グローヴァーとして、今ではラップの中心となったアトランタのいわば広報官のようなドラマを作りながら、もう一方では、彼の「もう一つの自我」たるチャイルディッシュ・ガンビーノとして、そのアトランタでラップが流れ着いた脱政治的なスタイルを真っ向否定するような政治的意識の高い楽曲、すなわち“This is America”を発表する。

 

先ほど「皮肉めいて見える」と言ったのはこのためだ。むしろ、彼本来のコメディアンとしての風刺的精神が発揮された結果と言ってもいいのかもしれない。

 

 

ミレニアル世代にとってのYouTube

ドナルド・グローヴァーは今年34歳の、いわゆるミレニアル世代を代表するクリエイターの一人だ。

 

1983年にカリフォルニアで生まれ、アトランタ郊外で育ち、大学はNYU(ニューヨーク大学)に通った。

 

NYUはマンハッタンに位置する有名な都市型大学で、ブロードウェイやテレビの4大ネットワークの本社が近くにあることから、メディアに強い大学として知られる。

映画製作で有名なUCLAやUSCの西海岸版だ。実際、NYUでアートや演劇、映像制作を学んでメディア業界で大成した人物は多い。

 

 

中でもグローヴァーは、正真正銘の才人で、マルチタレントの持ち主だ。もともとはスタンダップ・コメディのコメディアンだったが、それに加えて、監督、脚本家、俳優、ダンサー、ラッパーをこなす。

 

直近では、スター・ウォーズシリーズの外伝/スピンオフとして5月に公開された映画“Solo: A Star Wars Story”(日本では6月29日公開予定)にも出演し、グローヴァーは、ハン・ソロの若い頃の悪友で、後のスター・ウォーズ・シリーズ(『帝国の逆襲』、『ジェダイの帰還』)で反乱軍の支援者として活躍するランド・カルリジアンを演じている(ハン・ソロの愛機であるミレニアル・ファルコンは、もともとはランドのものだったといういわくつきのキャラクターだ)。

 

そんな彼が広く一般の注目を集めるようになったのは、2016年のテレビドラマシリーズ“Atlanta”からであった。

”Atlanta“はドラマ各賞で高い評価を受け、グローヴァー自身、エミー賞で主演男優賞と監督賞を受賞した。

 

 

2016年12月には、エンタメ誌“Hollywood Reporter”が主催したミレニアル世代のクリエイターによる座談会にも呼ばれている。

 

『アイアンマン』などの監督/俳優で知られるジョン・ファブローが進行役であったこの座談会に、グローヴァーの他に出席したのは、当時みな30代の、デイミアン・チャゼル(映画『ラ・ラ・ランド』の監督でアカデミー賞を受賞)、リン=マニュエル・ミランダ(ミュージカル『ハミルトン』で脚本・作曲・作詞・主演を担い、トニー賞を総なめ)、イッサ・レイ(コメディ『インセキュア』で注目を集めた黒人の脚本家・女優)の3人という豪華な顔ぶれで、まさにミレニアル世代のトップクリエイターといえる面々であった。

 

その中でも強調されていたが、彼らは皆、YouTubeを自分たちの時代のメディアとして捉えていた。

 

“This is America”にしても、SNLでのお披露目に合わせて、あの社会性の高いMVをYouTubeに即座にアップした。

 

クリエイターからすれば、従来のマスメディアをアーティストとしての主要な活動場所として開拓する傍らで、YouTubeのようなデモクラタイズされたメディアを手に入れたことは大きい。

 

創作物をリリースするタイミングを自在に調整できるメディアの存在は、初期において人びとの認知の奪い合いから入らざるを得ないアーティストにとって願ったり叶ったりであった。

 

 

YouTubeに限らず、ストリーミングやソーシャルメディアのサービスは、いずれもプラットフォームとして提供されており、その本質は、互いに何らかの願望を抱えた集団をめぐり合わせ、その間に強固な回路を生み出すところにある。

 

そのマッチングを生み出す際に、とりわけ強い誘引となるのが映像作品であり、今では映像は、音楽、画像、語り、などの複数のコンテント要素を飲み込んだ総合作品と化している(プラットフォームのマッチメイカー機能についてはエヴァンス&シュマレンジーの『最新プラットフォーム戦略 マッチメイカー』が参考になる)。

 

すでに触れたように“This is America”には、ミンストレル・ショーの影が付きまとうが、プラットフォームとしてのYouTube、あるいはそれを実際に拡散させるソーシャルメディアの力を踏まえると、むしろソーシャルメディアそのものが一種の「幻想的なローカル」のようなものとして立ち上がっていることに気がつく。

 

いわばYouTubeそのものがミンストレル・ショーの上演される現場なのだ。

 

そうしてグローヴァー/ガンビーノは、アメリカン・ポップカルチャーの原点であるミンストレル・ショーを現代に蘇らせ、その歴史的意義にまで人びとの関心を向かわせる。

 

実際、このソーシャルメディアにおける「幻想的ローカル性」は、アトランタで見られるラップの急変、たとえば「トラップ」の人気獲得もあと押している。

 

しばしばラッパーの台頭には特定の「地元」のバックアップが必要で、それもありラップには何かしらの社会性/政治性が伴っていたのだが――その裏返しに成功したラッパーの多くはしばしば地元に経済的還元をするよう独自のショップを開いたりしてきた――、そのような「地元」のファンに変わりソーシャルメディアの中のフォロワーがラッパーの主題にヒントを与えるようになってきた。

 

 

内省やファッション性、黒人性の脱色と(実際の購買リスナーである)白人の志向の取り込みなどが生じる。

 

いわば、当初あった社会的な夾雑物が(皮肉なことに)ソーシャルなメディアを通じて濾過されたことになる。

 

そうした近年の動向に対して、グローヴァー/ガンビーノは活を入れたわけだ。

 

興味深いことに、そのような所作は彼だけのものではなく、ビヨンセやケンドリック、あるいはそのケンドリックが楽曲を提供したこの春の映画『ブラックパンサー』にまで通じるものだ。

 

黒人という存在そのものを掛け金にして、アフリカ系アメリカ人という大西洋をまたぐ二重のアイデンティティから現代という時代に疑問を投げかける。

 

そのメッセージの越境的伝播にもYouTubeやソーシャルメディアは寄与している。

 

ここには、単体の作品に留まらない大きな動きが生まれているようにも思える。

 

その意味で、音楽はやはり少し先の未来を歩いているのかもしれない。

 

 

 



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