「ミスターSASUKE」山田勝己の常軌を逸する行動

 

「名もなき男たちのオリンピック」

 

特別な技術を必要とせずに誰でも同じ土俵でナンバー1を競うことができる。

そのコンセプトの下、創意工夫がなされた障害物が立ちはだかる4つのステージのクリアを目指す「SASUKE」(TBSテレビ系、最新回『SASUKE2018』が3月26日<月>よる7時から放送)が誕生したのは1997年9月27日のこと。

 

その100人の参加者の中には、のちに「ミスターSASUKE」と称される山田勝己の姿もあった。

当時31歳だった山田も一人のボンベ配送業者でしかなかった。

 

「中学生のときは陸上部で、高校では野球部。その後、20歳を過ぎてからはジムに行って体を鍛えたりはしていたのですが、なにか自分が頑張れば結果が出せるものを探していたんです。

そんなとき『筋肉番付』(TBS系)という番組を見ていたら、3分間で腕立て伏せの回数を争うクイックマッスルという競技で一般募集をしていた。これはチャレンジができると思いました。そこからはジムでのトレーニングも腕立て伏せに特化したメニューに変えました」

 

 

そのかいもあって大阪府の予選会を1位で勝ち上がると、全国選手権でも準優勝。

 

だが、山田は悔しさのあまり涙を抑えることができなかった。

 

 

軽い気持ちで参加した第1回

実力だけでなく、そんな熱いハートを番組関係者に評価されたのだろう。

 

「筋肉番付」のスペシャル企画としてスタートすることになったSASUKEの担当者から出演打診の連絡が舞い込んだ。

人生を大きく変えることになる出会いだったものの、そのときはまだ、どんなものかもわからない。

 

山田といえども端(はな)から燃えていたわけではなかった。

 

「第1回は普通のテレビ番組で、ちょっとバラエティっぽいものなのかなと思って軽い気持ちで参加しました。実際の雰囲気もそんなふうに感じました。2回目があるとも思っていなかった」

 

1stステージはクリアしたが、2ndステージで敗退。悔しさは残ったが、続きがあるとは想像もしなかった。

 

ところが、およそ1年後。

山田の電話が鳴った。

 

第2回SASUKEへの参加の呼びかけだった。

今度は、まだほんの少しだったが、山田の胸を高鳴らせた。

「終わってからも悔しさがこみ上げてくるんです」

「あっ、次やるんや。今度は絶対に最後まで行って、優勝賞金200万円もらってやるねん」

だが、その気持ちの高揚とは裏腹に、第1回同様、SASUKEの壁が立ちはだかった。

 

「第2回から場所も室内から屋外の緑山スタジオに変わって、雰囲気も全然、違った。気持ちも入ったんですが、結局、また2ndステージまでしか行けなかった。同じ相手に2回、負けた。それが許せなかった。終わってからも悔しさがこみ上げてくるんですよ」

 

 

なにかにのめり込むきっかけは「敗北」

負けず嫌い―――

 

山田勝己という男を形作っていく歩みの中で欠かすことのできない言葉。

勝負の世界で生きる者にとってはありきたりではある。

 

だが、山田のそれは、あまりに度が過ぎる。

「負けたら悔しいじゃないですか。次は絶対に勝ったるぞって。僕の場合、なにかにのめり込むきっかけは『敗北』なんですよね。小さいころから、それは変わりませんし、1つのことに対する執着心というのは強いと思います」

 

そう言いながら記憶の扉を開けていく。

 

「小学生の3年生のときにマラソン大会に出場したときのことです。走ることには自信があったので優勝できると思っていたんですが、結果は4位だった。それが悔しくてすぐに長距離を走る練習を続けた。それで4年生からずっと優勝。

ちゃんとした経験がないまま高校で野球を始めたときも、すぐにエースで4番になってやると思っていたんですけど、すぐに肩を壊してピッチャーができなくなった。それなら打つほうだけはと意気込んでいたんですが、夏に3年生が引退して、2年生と1年生の新チームになっても、試合の遠征に連れて行ってももらえない。

夏からずっと15人くらいで学校に居残り練習の日々。11月3日に、その年の最後の練習試合があって、9回二死2、3塁の一打逆転の場面で代打に指名された。やっと巡ってきた打席。

でもすべて見逃しで三球三振。ひざがガクガク震えてバットを振ることができなかった。野球ではそのとき初めて悔しいと思った」

 

と同時に、山田の脳裏に父親の言葉がよぎった。

 

 

中学校最後の陸上部の大会に向かう際、なにげなしに「行ってくるわ」と伝えると、普段、スポーツに関して口を挟むことのない父親が「勝ってこいよ」と返してきた。

レースには自分よりも足の速い相手がいた。

足は昨日の今日では速くなるものではないだけに、山田は「勝たれへんわ」と、つれなく言った。

 

 

「最初から負ける思うんなら行くな!」と父親。

 

「速い選手は速いんや!」

 

そのときはなにも感じずに言い返すだけだった。

しかし、ピッチャーに向かっていくこともできなかったときに意味がわかった気がした。

 

山田は練習に明け暮れた。

 

「そこからなにかにのめり込む際の度合いが激しくなっていったんです。春までの約5カ月、学校や寝ている時間以外はほとんどバットを振っていました」

 

一瞬、そんな大げさなと思ったが、山田ならありえる気がして、言葉を挟むのはやめにした。

 

「春になって最初の試合は出してもらえなかったんだけど、次の試合は8番で先発出場。今度は、ストライクが来たら絶対に見送らない。初球のストライクから打って出ると決めて、実際にストライクが来た。それをホームランにできた。

次の打席でも初球を打ってホームラン。そこからずっと4番になった。あの三球三振がなければ、今のようにはなっていないです」

 

 

自宅にそっくりな手作りセットを組み上げた

第2回SASUKEで山田の行く手を阻んだのは「スパイダーウォーク」という種目だった。

 

同じ屈辱を味わわないため、山田は動いた。

自宅に手作りで「スパイダーウォーク」にそっくりなセットを組み上げてしまったのだ。

しかも、その時点では第3回の開催があるかどうかが決まっていないにもかかわらず、である。

「もちろん、『今回で終わりです』と言われていれば作ってはいなかったと思いますけど、やるかもしれないという感じだったので。次、やるんやったら絶対に勝ってやる、と。そうしたら大会が終わって2カ月経たないくらいのうちに、第3回の出場打診があったんです。待ってました、ですよ」

 

スイッチが入ったのだろう。

 

「スパイダーウォーク」は体重が重い選手には不利だと判断し、約3カ月後の決戦に向け、減量を始める。

 

山田はここでも常軌を逸する行動に出た。

「15kgくらい落として、65kgまで軽くしました。ボクサーのように食べ物とか、水分摂取を制限した。お腹がすき過ぎて寝られなかったですし、あそこまで体重を落とすと精神的にも不安定になるんですよ。でも、できるかぎりのことをやって臨もうと思ったので、もっと練習しよう、もっと体重を落とそう。そんな感じでした」

 

あまりにも急激にやせたため、家族はもちろん、周囲も山田を本気で心配していた。

 

「おまえ、病院に行ったほうがええんちゃうか」

と何人にも言われた。

 

もっと深刻だと見て取った人は後々、山田にこう打ち明けた。

「あんまりにもやせてしまって、みんなで『山田は絶対にガンやぞ』と話していた。だから、逆に『ガン、違うか?』とおまえにはよう言わんかった」と。

そこまでして臨んだ第3回大会で山田は初めてファイナルステージに足を踏み入れる。

 

そして、15m上空に組み立てられたゴールから垂れ下がるロープを懸命に登った。

しかし、無情にも残り約30cmのところで与えられた30秒を使い切ってしまう。

それでも第1、2回大会を含めても誰よりもゴールに肉薄し、「完全制覇に最も近い男」となった。

 

 

「あのときは完全制覇まで行くつもりだったので、体重は軽いままにしようと朝から水分しか摂らなかったんです。それでもう深夜だったファイナルのころには空腹に加えて集中力も欠けてきていた。極端な減量がたたった部分もあるのでしょう。最後は力があまり入らなかった。でも、手応えはありましたし、あれで心に火が点いた感じです」

 

まだ火が灯っていなかったのかという疑念は置いておく。

 

だが、実際に山田が「ミスターSASUKE」へと昇華していくのは、ここからなのだ。

 

 

リストラされ、アルバイトをしながら

「初めて最優秀成績者になりましたけど、もちろんそれでは満たされない。完全制覇に向けてさらに没頭していきましたね」

 

仕事中にトレーニングをしていて会社から注意され、一度は改めようと考えたが、どうしてもトレーニングを疎かにできない。

結局、リストラされてしまった。

 

その後、時間が確保しやすいということで妻の実家の鉄工所でアルバイトをしながら大会に挑み続けた。

 

「仕事を辞めさせられましたし、無茶をしていたので体のこととか、家族から心配をされたりはしましたけど、強く反対されることはなかったです。言っても無駄だと妻もわかっているので」

 

そう言って笑うが、第6回大会の前、体調を大きく崩したことがあった。

親からも「そんなに無理して体を壊すならもうやめておけ」と通告された。

 

「第6回も出たんですが、その後、体調がよくなるまで半年くらいかかった。しかも医者には運動してはいけないと言われていたのですが、第7回大会はほとんどトレーニングなしでチャレンジしました。

もしも、そこで体調が悪化したらさすがにアウトかなと思ったので、このときは妻と子どもを連れて行きました。いくらなんでも死んでまではやるわけにはいかないので」

 

 

ここまでSASUKEに人生を懸けている人間はほかにいない。

そう断言していいだろう。

 

仕事や健康を犠牲にしてまでやることかと首を傾げる人もいるかもしれない。

だが、人がやらない、いや、できないことをやるからこそ、視聴者は山田から目が離せない。

愚直ゆえに人を惹きつけ、魅了するのだろう。

 

 

番組プロデューサーも

「山田さんは失敗するにしても、こちらの想像しえない結果を見せてくれる。記録よりも記憶。プロ野球で言えば、王貞治ではなく長嶋茂雄なんです」

と唯一無二の存在に賛辞を惜しまない。

 

幸い、体は順調に上向いていったことで、途中、引退決意やその撤回、2度の欠場などがあったものの山田は第28回大会までSASUKEと対峙し続けた。

同大会で「引退」となったが、次の大会からは愛称の1つである「浪速のブラックタイガー」にちなんだ「山田軍団黒虎」を率いる指導者という形で参戦を続けている。

 


左から、山本進悟、竹田敏浩、秋山和彦、長野 誠、山田 勝己

 

「引退する前から若い子たちを指導することは考えていて、なにかチームを作りたいなと思ってやってきていました。引退を機に、そういう形ができたんですね。

今回の第35回にも山本浩茂と小畑仁志の2人が出場していますが、ちょっと考え方に甘いところが見えたので、だいぶしかりました。俺ならこうするのにと、歯がゆさを感じています。

しっかり言うところは言ってあげないと、その子たちのためにならない。彼らにとって今は絶好のチャンス。ダラダラやっていたらすぐにチャンスがなくなってしまいますから」

 

 

山田は指導者として収まっているのかと思いきや、自身の仕事面でも手を緩めることなく、新たな目標を見つめている。

 

「今は妻の実家の鉄工所の社長としてやっていますが、せっかく世間に自分のことを知ってもらっているので、飲食業であったり、ジムの開業を目指して、いろいろな人にノウハウを聞いたりしています。

そのためにはまず、鉄工所で一緒に働いている子どもに2、3年かけて仕事を教えきらないといけない」

 

 

成し遂げていない完全制覇への情熱

そして、山田自身が成し遂げていない完全制覇への情熱を失ったわけではない。

 

「今は1日13時間くらい働いているのですが、さっき言ったように人に任せられる仕事を3つほど持てれば、自分の労働時間を半分くらいに減らせる。そうなれば、その分の時間をトレーニングに充てられる。昔みたいに時間のない中での3時間ではなく、ゆっくり6時間使える。年齢が年齢なので体のケアもしっかりしながら、トレーニングして復活したい」

 

現在、52歳。

 

肉体の衰えに抗えない年齢のはずだ。

 

しかし、山田は平然と首を振ってみせる。

 

「限界とか常識とかは全然、気になりませんよ。こういう話をするとまわりは信じないですけど、俺からするとあきらめる理由がどこにも見つからない。自分の身体能力、体力を信じていますから。そこがブレたことは1度もない。第3回大会から完全制覇への思いもまったく変わっていない。俺にとってSASUKEは必ず乗り越えないといけない壁なんです」

 

これと決めれば、山田はどんなときも、本気である。

「復活をあきらめていないし、そのタイミングも東京オリンピックがある2020年ともう決めています」

 

 

初参戦から20年以上を経ても、その眼光の鋭さはみじんも衰えていなかった。

 

 

 



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