死刑判決を下した裁判官の「その後の人生」

2018/03/18

 

法廷に立った被告から命を奪う――。

 

「死刑」という、あまりにも重い決断を迫られる裁判官たち。

 

彼らは、何を思い判決文を読み上げているのか。

悩み、迷い、時には心を病む。法服の裏に隠された内面に迫る。

 

 

刑事裁判官たちの怒り

人を裁き、裁かれた者の運命を差配する裁判官には、心からの謙虚さをもってその職務にあたることが求められている。

 

法廷に立つ者の必死の叫びに耳を傾け、ささいに思える主張についても慎重に吟味し、真実探求の努力を惜しまないことでしか、正義の実践を成し得ないからだ。

 

だが、往々にして無辜の民が罰せられ、社会的地位や権威と無縁の小さき声は、冷たく退けられてきた。

 

複雑な社会現象や難解な政治問題をわかりやすく整理し、平易な言葉で解説するジャーナリストの池上彰は、視聴者や読者から高い支持を得ている。

 

しかし刑事裁判官たちの池上への評価には、手厳しいものがある。

過去の発言の一部が、彼らの神経を逆なでしたからだ。

 

 

2010年12月5日放送のバラエティ番組「池上彰の世界を見に行く」は、1年の「10大ニュース」のひとつに、裁判員裁判での「初の死刑判決」を取り上げた。

 

市民が裁判に参加する裁判員裁判がスタートして1年半。

極刑である死刑判決に、はじめて裁判員が関わったとして話題になったニュースをランクインさせた理由を、池上はこう語っている。

 

「判決に不服なら、高等裁判所に控訴することができますと被告に教えるんですよ。

これはいつもやってることなんですよね。今回はですね、控訴を勧めますと言ったんですね。つまり、一審で死刑判決を言い渡したんだけれども、それに自信がないんじゃないかと、思わせる判決だった」

 

日本の裁判は三審制のため、一審の地裁判決に不満があれば、二審の高裁に控訴でき、さらに最高裁に上告できる仕組みになっている。

 

この制度説明とともに、池上はこう続けた。

 

「裁判長が控訴を勧めますということは、わたしの判決に自信がありません、と言ってることでしょう。プロとして、これは本来言うべきことではないですよね」

 

横浜地裁の3人の職業裁判官と、一般市民から選任された6人の裁判員が下したこの死刑判決は、元暴力団員のA被告(逮捕時31歳)に対するものだった。

 

マージャン店の経営権をめぐるトラブルから、A被告は、同店の経営者と会社員の男性の二人を冷酷な手口で殺害していた。

 

判決文は、命ごいをする被害者の首を、生きたまま電動ノコギリで切断するなど

「想像しうる殺害方法の中でも最も残忍。被害者の恐怖や肉体的苦痛は想像を絶する」

と断罪している。

 

 

その判決言い渡しのあと、裁判長は、「重大な判断になったので控訴を勧めたい」と付け加えていたのである。

 

市民である裁判員にとって、いくら合議を尽くした結果とはいえ、人の命を奪うことへの悩みと苦しみは尽きない。

 

しかしそれ以上に、死刑判決を起案する裁判官は、人が人を裁くことのいい知れない重責を背負い続けなければならないのである。

 

 

ある刑事裁判官は、静かな口調ながら、不快の念を滲ませ語った。

「そもそも自信がなくて、死刑判決など書けるものではない。裁判官にしろ、裁判員にしろ、みんな夜も眠らず、考えに考えた末の、ギリギリの判断によって死刑を選択しているのです。

また裁判長が控訴を親身になって勧めるというのは、よくあること。この人、わかってないなと腹が立った」

 

 

一度でも死刑を宣告したことのある裁判官にとって、その法廷と判決朗読の時間は、記憶から消えることはない。

 

死刑判決を起案する過程で精神に変調をきたす裁判官もいる。

 

「司法修習を終え、任官した直後の裁判官でした。5人が死亡した放火殺人事件を担当させられ、ストレスから盗撮に走り、挙げ句、逮捕されてしまった。

盗撮をはじめた時期と、事件を担当した時期とが重なっていたので、ストレスからの異常行動だったとして、同期の裁判官たちは同情し、職場復帰するよう励ましていた。

しかし新聞等で大きく報じられたこともあって、弾劾裁判にかけられ、法曹資格まで剥奪されてしまった」(裁判所関係者)

 

 

死刑判決の重みは、それを宣告した者にしかわからない。

まさに、究極の刑罰なのである。

 

 

元裁判官のひとりも、死刑を宣告する日は朝から極度に神経が張り詰め、法廷に入るドアノブに手をかけた時は、できることなら逃げ出したかったと語った。

 

「法廷に入ると、頭を丸坊主にし、緊張で顔面蒼白となった被告人(犯人)が、まず、目に飛び込んでくる。

その背後の傍聴席の片隅には被害者の遺族が怒りも露に座っている。もう一方の片隅には、被告の奥さんが、申し訳なさそうに身を縮めている。

法廷全体が、なんとも言えない重苦しい空気に包まれていて、ややもすると、気持ちがなえる。しかし裁判長として、みっともない態度は取れないので、自らを鼓舞し、ヘジテイト(躊躇)しながらも死刑を宣告したものです」

 

これまで宣告した3件の死刑判決のなかでも、忘れられない法廷がある。

会社のカネを使い込んだあげく、発覚を防ぐため残業中の上司と警備員を撲殺。

金庫から現金を盗んだのち、証拠隠滅のため建物に放火した男を裁いた法廷だ。

 

 

被告に同情することも

当時を回想しながら、元裁判官は語った。

 

「根はまじめなサラリーマンが遊興におぼれ、人生の歯車を狂わせてしまった。逮捕後は犯行を悔いつつ、責任を真正面から受け止めようとする姿が、立派だった」

 

逮捕されるまでの間、男は、北海道でひとり暮らす年老いた母親に一目会いたいと、人目をさけ、山道を徒歩で数ヵ月、歩き通し青森までたどり着いていた。

 

しかし青函連絡船の時間待ちで入った映画館に自身の指名手配写真が張ってあるのを見て、北海道には渡れないと観念。

妻に別れの電話を掛け、家族を不幸にしたことを詫び、子供のことを頼むと伝えての出頭だった。

 

 

元裁判官の回想は尽きない。

 

「法廷で判決文を読みながら、この被告も、赤ん坊の時は夜泣きをし、母親は優しくあやしたんだろう。父親も、経済的につらい思いをしながら学校にやったに違いない。

大事に育ててきた自慢の息子が、人を殺めて裁かれる。そんな日がくることを親は、想像もしなかっただろうなと思うと、いかにも不憫で、やりきれなかった」

 

単なる使い込みだけなら、数年で出所できたはずだった。

 

その不正を申し出る勇気がなく、狂気の犯行に走った男の哀れを、ときどき思い出すという。

 

「たしかに法廷で長く審理をしていると、犯人に対しても、同情の念がわき起こることがある」

 

こう語るのは、現職のベテラン刑事裁判官だ。

 

 

「ただ、法定刑として死刑が定められている法制度のもとでは、裁判官は、その罰則の適用にあたり、最高裁が示した『死刑選択の基準』に従わざるをえない。

なんとか生かしてやりたいと人情に流されて、死刑回避を許せば、個々の裁判官に重刑廃止の立法権を与えることになるからです」

 

だからこそ、死刑を宣告したのち、この判決をほかの裁判官がどう考えるか。再考すべき手がかりが、何かあるのかもしれない。

 

そう思って、現行法で取り得るギリギリの限度として、控訴や上告を勧めるのだ。

 

 

現在、宮崎市で公証人を務める小松平内も、そんな元裁判官のひとりだ。

 

地裁の裁判長として3件の死刑判決を下し、地裁の陪席裁判官としても死刑判決に関与した。

宮崎地裁の裁判長時代、小松は、涙ながらに死刑を言い渡したとして、新聞に報じられている。

 

「最後は絞り出すような声で『内外の死刑に対する意見もあるが、被告の罪責は最も重い部類に属し、極刑をもって臨むのはやむをえないと考える』と言い、死刑を言い渡した。さらに『控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める』と述べた」

 

公証人役場の応接室で、当時を回想しながら、小松は、おもむろに口を切った。

 

「あの判決文は長かったんですよ。いちばん大事なところは僕が担当したけれど、2人の陪席裁判官と手分けして朗読した。新聞で報じられたのは、量刑理由のところです。

犯人の生育歴や、被害者らの人生をまとめた箇所ですが、殺されたふたりの女性は、数奇とまでは言わないけど、何とも言えない人生を送っていた。

ふたりとも、中高年の域に達した頃、ようやくいろんなしがらみから解放され、これから生活を取り戻せるとの実感があった。

その矢先に、犯人の魔の手が伸びてきて、人生を終えなければならなかった。そういう境遇を読んでいて、無念だっただろうなと思うと、身につまされてしまった」

 

二人を殺した犯人もまた女性だった。

B被告(犯行時、39歳)は、家業の工務店の経営が行き詰まり、金策に走り回るなか犯行に及んでいた。

 

 

最初の殺人は、知人女性に睡眠導入剤を混入した缶コーヒーを飲ませて絞殺。

バッグの中から9500円を奪うというものだった。

 

その10ヵ月後、今度はゴルフ仲間の薬剤師に借金を申し入れ、断られたことに激高。

絞殺してキャッシュカードを奪い、200万円を引き出していたのである。

 

 

法廷で、事実関係が争われることはなく、犯行時の心神耗弱状態が主な争点となった。

責任能力の減退を理由に、刑の減軽を求めるというものだった。

 

 

裁判官の「背負うべき宿命」

「はっきり言って」と、強い口調で小松は語った。

 

「同じ、お金目当ての絞殺であっても、これは許さないという事件とは、ちょっと違っていた。犯人にも同情すべき事情がありましたから。

責任能力のあることは、検察申し立ての鑑定で容易に認定できた。あとは量刑をどうするか。これを詰めるのに、ものすごく苦労した。

最初から結論ありきではなく、論点を整理し、それに関する資料を収集し、証拠を読み込み、合議に合議を重ね、延々と議論したものです」

 

 

合議では、過去の死刑事案と、死刑を求刑されながら無期懲役になった事案とを洗い出し、どういう事情をどの程度重く見たのか。

 

あるいは、見なかったのかを子細に検討し、他の事情などとも照らし合わせ、結論を導いた。

 

「僕は、個人的には死刑制度に反対なんです。だけど、裁判官になる時に、憲法違反でないかぎり法令に従うと約束しているわけだから。

担当した事件が、死刑以外にないと判断した以上、言い渡すしかない。嫌な役目だけど、これも裁判官が背負うべき宿命なんです」

 

 

B被告は、小松の勧めにしたがい控訴、上告するが、高裁、最高裁とも死刑判決を支持。

確定死刑囚として、現在、再審請求中にある。

 

 

小さなため息とともに、小松は呟いた。

 

「あのあと同じ裁判所の裁判官から、ずいぶん批判された。裁判官は感情を表に出したらいかん、と。だけど能面のような裁判官ではなく、悲しみのわかる言動をしたっていいじゃないかと思ったものです。

ただ僕は、泣いたわけじゃない。声が裏返ったのは認めるけど、朗読のあと疲労困憊していて、汗でメガネがずれたのを指で押さえただけのことです」

 

小松は、その後、2件の死刑判決を言い渡している。

そして定年まで4年を残し、熊本家裁所長を最後に退官した。

 

 

「死刑選択の基準」というものがある。

 

これは「永山基準」と呼ばれ、連続射殺魔と称された永山則夫(逮捕時、19歳)の裁判から生まれたものだ。

 

永山は、わずかひと月ほどの間に、東京、京都、函館、名古屋で警備員やタクシー運転手4人を射殺。

タクシーの売上金や腕時計などを盗んでいた。

 

 

凶器の拳銃と銃弾は、横須賀の米軍基地に忍び込み、基地内の住宅から盗んだものだった。

 

最初の犯行から約半年後の1969年4月、永山は東京・渋谷区の路上で逮捕された。

犯行時、19歳の年長少年だったが、一審の東京地裁は死刑を言い渡した。

 

ところが控訴審で無期懲役へと減刑されるのである。

その理由を、審理にあたった東京高裁の船田三雄裁判長は、判決文に書いている。

 

「ある被告事件につき死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判所がその衝にあたっても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限られる」

 

「死刑の宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき意見があるけれども、その精神は現行法の運用にあたっても考慮するに価するものと考える」

 

 

死刑を選択する基準

永山の命をひとまず救った「船田判決」は、しかし一方で、最高裁に混乱をもたらした。

 

『死刑の基準「永山裁判」が遺したもの』の著者、堀川惠子の言葉を借りれば、「船田判決」が一般化すれば、死刑をまったく例外的な刑とする可能性があり、ひいては実質的に死刑廃止の主旨と理解される余地があったからだ。

 

元東京高裁裁判長で、弁護士の木谷明が語る。

木谷は、「船田判決」当時、最高裁判決の文案を作成したり、判例解説を執筆したりする調査官の職にあった。

 

「船田判決は、その当時の死刑言い渡し基準から見ると、やはりかなり踏み込んだ判決です。それについて最高裁が、一定の見解を示さないと収拾がつかないと思ったのでしょう。船田判決を破棄し、高裁に差し戻しした。

審理にあたって、『死刑の選択も許される』べき基準を、量刑因子(判断基準)として示したのです」

 

 

最高裁が示した量刑因子は、

「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状」

の9項目だった。

 

 

これが、その後の死刑判決で、必ずといっていいほど引用される「永山基準」である。

 

 

元東京高裁裁判長は言った。

 

「差し戻し審は、審理を一からやり直すのではなく、審理すべきポイントが指示されている。

極めて限定された範囲での審理となるうえ、最高裁は、無期では納得できないと言っているわけだから、審理の結果は、最初からほとんど決まっているという感じがした」

 

 

実際、差し戻し審は、永山に死刑判決を言い渡している。これに対し、永山は上告するが1990年4月、第二次上告審で死刑が確定。

確定判決から7年後、逮捕から28年後に死刑は執行された。

 

 

最高裁の「永山基準」によって、死刑判決が増えることはなかった。

しかしその後、さらなる凶悪事件が発生したことで「永山基準」は緩和され、死刑は「選択も許される」刑罰から、「選択するほかない」刑罰へと姿を変えていくのである。

 

 

死刑の「選択基準」を大きく緩和させたのは、1999年4月、山口県光市で発生した母子殺害事件だ。

 

当時、18歳と1ヵ月の少年だったC被告は、排水検査の作業員を装い、若い主婦(当時、23歳)のアパートの部屋に上がり込み、絞殺したのち性的暴行を加えた。

しかも泣き止まない生後11ヵ月の長女を、ヒモで絞殺するという残忍な事件だった。

 

 

少年の場合、殺害した人が2人だと死刑になった例はなく、無期懲役が下されている。

また「永山基準」に照らしても、C被告に前科はなく、少年審判手続による調査で「矯正教育の可能性がある」と報告されていた。

 

そういう事情が有利に働いたのだろう。

一審の山口地裁、二審の広島高裁とも、無期懲役を言い渡した。

 

 

しかしこの後、事態は劇的に変化する。

被害者の夫がテレビに出演するなどして、その無念の思いを、強い怒りとともに訴えたのである。

これによって厳罰化を求める世論が形成され、それに押されるように最高裁は、無期懲役を破棄し、審理を高裁へと差し戻した。

 

 

その最高裁判決にはこう書かれている。

「極刑がやむを得ないと認められる場合には、死刑の選択をするほかないものといわなければならない」

 

 

世論に押された「厳罰化」

暗に、死刑判決を求める書きぶりだろう。

 

そして、差し戻し審の広島高裁は、C被告に死刑を言い渡している。被告側は上告するものの、上告審で棄却。死刑が確定している(現在、再審請求中)。

 

最高裁の内幕を暴いた『最高裁の暗闘』(朝日新書)によれば、この事件をめぐり最高裁は、相当に混乱していたことがわかる。

 

事件を担当した第三小法廷の濱田邦夫裁判長は、

「死刑と無期、2通りの判決文案を調査官室につくらせ」、

「『死刑』派は『無期』派に迫った。『どちらが社会に説得力があるだろうか』その結果、『無期』派が折れたのだった」

 

 

しかし、被告の罪を問い、量刑をどうするかは、「安定普遍の法」によって裁かれる必要がある。

世論に押されての政治的判断や、変幻自在の政策によって裁かれたのでは、もはや裁判とは言えないだろう。

 

 

光市母子殺害事件は、死刑の選択基準を緩和し、少年であっても死刑を言い渡すという厳罰化への流れを生み出した。

だがここに大きな危険が孕んでいることを最高裁は見逃していた。

 

 

2009年に裁判員裁判が始まったことで、その危険性にようやく気づき、大慌てで修正を加えることになる。

 

 

 



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