東日本大震災「なぜ」で涙の法廷

 

「先生の言うことを聞いていたのに・・・」

 

東日本大震災からまもなく7年。

津波で児童ら84人が犠牲になった石巻市立大川小の児童23人の遺族が市と県に損害賠償を求めた訴訟の控訴審が結審した。

 

最終弁論では、子供たちの悲痛な叫びを代弁する遺族の言葉に、傍聴席はもとより書記官の目にも涙が浮かんだ。

1審では、教職員らが津波を予見できたなどとして、石巻市と県の過失を認定、14億円余りの賠償支払いを命じた。

控訴審では「事前の備え」が主な争点となった。

判決は4月26日に言い渡される。

 

晴れ間がのぞき、雪がちらついた1月23日の午後。

溶けた雪を音もなく踏みしめながら、厚手のダウンを着込んだ遺族らが、険しい表情で裁判所の門を通った。

正面玄関に今月から導入された金属探知ゲート。

7回目の口頭弁論をこの目で見ようと、フリーのジャーナリストや一般傍聴人など多くの人が検査を受け、通っていった。

 

 

平成23年3月11日。

大川小には堤防を越えて津波が押し寄せた。

 

その前に2回、防災無線が鳴った。

「山さ逃げっぺ」。

そう言う生徒もいた。

だが、教員らの指示で校庭に集められた生徒は、裏山ではなく堤防側へ避難した。

 

津波が襲いかかり、子供たちの大半は避難途中のルート、山の裾で折り重なるようにして見つかった。

 

学校管理下では最大の悲劇だった。

 

「『なぜ、僕たちは死んだの…』『なぜ、先生は助けてくれなかったの…』亡くなった74人の命が問いかけます。子供たちの命を守ることができなかった私たち大人は、7年という長い時間をかけても子供たちの問いかけに答えを出せずにいます」

 

最終弁論で法廷に立った原告団長の今野浩行さん(55)。

長男の大輔くん(当時小6)を亡くした。あの日の「なぜ」の答えを、司法の場に求めてきた。

 

襲来7分前の津波予見可能性が認定された1審。

今度は唯一助かった男性教諭から話を聞きたい。

だが、控訴審では震災より前、「事前の備え」に焦点が当たった。

 

「初めから実行する気のないマニュアルを、市教委に提出するためだけの目的で作成していた」

 

当時の校長の対応と、危機管理マニュアルのずさんさを非難した。

津波で被害を受け、適切に対処できなかった学校の校長をジョーカーに例えた。

 

「(大川小は)ババ抜きに負けた」と切り捨て、

「“ババ抜き”を成立させないようにすることが教育委員会の存在意義ではないか」

と厳しく非難した。

 

争点化した「事前の備え」について、結審後の会見で今野さんは、審理の対象になったことを受け入れる姿勢を示した。

市側の代理人も「双方が議論を深めてきたことは有意義だったと思う」と評価した。

 

市側は、1審で認定された津波の予見可能性について、控訴審でも一貫して不可能だったと主張してきた。

決壊した大川小の正面の北上川堤防について、津波の遡上が前提だった、という点に争いはなかったものの、原告側は地震の揺れによって決壊したと主張。

 

一方の市側は

「津波による越流、溢水によって破損された」

として、国土交通省の資料を基に論を展開した。

 

市と県側は和解による解決を望んだ。

代理人は「市長、県知事がそういう意向だということ」と明かした。

 

裁判所の尋ねにも「民事は和解解決が第一だ」と話し合いによる解決を考えていた。

だが、遺族は判決を望んだ。

 

4月26日に言い渡される判決。

争点は移ろい、和解は決裂した。

 

互いのすれ違いを経て迎える判決は、不可逆的な解決を導く結末になるのだろうか。

(東北総局 千葉元、塔野岡剛)

 

【大川小学校】

東日本大震災発生時、宮城県石巻市釜谷地区にあった市立小学校。

海岸から4キロ離れていたが、北上川を遡(さかのぼ)った津波が襲来。校舎南側の裏山に避難せず、約50分間校庭に待機した後、川沿いの堤防目指して避難を始めた児童74人と教職員10人が犠牲になった。

平成26年3月、校庭に待機させた判断の適否などを争点に、児童23人の遺族が宮城県と石巻市に損害賠償を求めて提訴した。

被災した旧校舎は、28年3月に震災遺構として保存が決定した。

 

 

 



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