真屋順子さんが死去 昭和のほのぼのバラエティー「欽どこ」を振り返る

 

女優の真屋順子さん(享年75)が昨年12月28日に亡くなっていたことが、一部スポーツ紙の報道でわかった。

真屋さんといえば、なんといっても一世を風靡した人気番組、萩本欽一の”欽どこ”こと「欽ちゃんのどこまでやるの!」(テレビ朝日系)の母親役が記憶に刻まれている。

同番組は1976年10月にスタートした。

ちなみに大橋巨泉司会の「クイズダービー」(TBS系)や黒柳徹子司会の「徹子の部屋」(テレビ朝日系)といった長寿番組も同年の放送開始だ。

テレビを前にしての一家団らんの景色、お茶の間の景色が多くの家庭に残っていた最後の時代かもしれない。

欽どこは昭和の古き良き時代を象徴するような、あたたかいホームドラマスタイルのバラエティー番組で、真屋さんは萩本と夫婦を演じた。

 

引っ越しや出産など、約10年におよぶ放送期間中に番組中の家庭も成長。

長男・見栄晴や三つ子の女の子(ユニット『わらべ』を結成)など人気キャラクターも生まれた。

毎週水曜夜9時の放送、最初は視聴率がなかなか上がらなかったというが最盛期には平均視聴率30%台、最高視聴率42.0%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)という人気ぶり。

まさしく真屋さんは、”日本一の母親”だった。訃報に接し、いま欽どこを振り返ってみたい。

 

たよりないアナウンサー、見栄晴、わらべなど、大人気だった「欽どこ」

ステージに家庭のセットが組まれ、観客を前にした公開録画形式で収録(例外で生放送となった回もある)。

茶の間に置かれたカラーテレビから突然ニュース番組が始まり、アナウンサーが萩本家と観客に向けてニュースを放送する設定がウケた。

アナウンサーも、フリーアナの北野英二氏が演じた「いつものアナウンサー」をはじめ、「不慣れなアナウンサー」、「少し慣れたアナウンサー」、斉藤清六演じる「たよりないアナウンサー」、テレ朝・藤井暁アナ(現在も同社社員)演じる「ほんとのアナウンサー」と交代していった。

また、最初は萩本と真屋さんだけだった家族も増えていった。

番組が始まって約1年2カ月、77年12月に長男(見栄晴)が誕生。

それにともない、78年1月には最初の引っ越しもしている。赤ちゃん時代の見栄晴は人間が演じていたのではなく人形だったが、同年5月には子役(西澤祐一郎)に変わった。

以後、成長とともに見栄晴役は藤本正則、長浜芳弘と変わっていく。

前後するが、79年2月には見栄晴に三つ子の妹が誕生。

後に、のぞみ、かなえ、たまえと命名される。

見栄晴同様、最初は人間ではなく人形で、なぜか「たまえ」だけが明らかに手抜きの造形で面白さを醸し出していた。三つ子はやがて子役が演じるようになり、その後、82年になると、のぞみを高部知子、かなえを倉沢淳美、たまえを高橋真美が演じ、「わらべ」として実際に歌手デビューを果たす。

番組から飛び出た企画ユニットだったが、欽どこならではの素朴さが人気を呼び、ファースト・シングル「めだかの兄妹」が88万枚以上を売り上げる大ヒット。

もともとは番組のエンディング、就寝する場面で使われていた曲をリリースしたもので、坂本龍一が編曲を担当した。

その後、高部がスキャンダルで番組降板とユニット脱退という苦境に陥ったが、倉沢と高橋の2人だけでセカンド・シングル「もしも明日が…。」をリリース。約100万枚を売り上げるスーパーヒットとなった。

ひとつの番組が10年も続けば紆余曲折あるが、真屋さんは一貫してほのぼのしたお母さん像に徹し、番組を支えた。

 

夫で俳優の故・高津住男さんに支えられ一時は舞台復帰も

2000年代に入ってからは闘病を繰り返し、脳梗塞を発症するなどしたが夫で俳優の高津住男さんの懸命な看病や強靭な意思で復活、車椅子で舞台に復帰するなど女優業を続けた。

しかし10年には長年連れ添った住男さんと死別。11年には大動脈瘤(りゅう)が見つかり、4時間に及ぶ手術を受けるなどし、最近はほぼ寝たきりの状態だったという。

真屋さんは1942年生まれ、大分県日田市で育った。

地元の高校を中退後、松竹歌劇団(SKD)入団。その後、俳優座養成所を卒業(俳優座13期生)し、女優の道をひた走る。

 

NHK大河ドラマ「赤穂浪士」でテレビ初出演、77年の時代劇ドラマ「人形佐七捕物帳」が評価され、京都市民映画祭テレビ映画部門女優賞を受賞するなど、確かな演技力、女優としての実力があればこそ、自然体で表現できた”みんなのお母さん”だった。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 



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